mixiユーザー(id:52595329)

日記一覧

上野城
2019年07月27日23:53

住宅街に石碑はあるものの、色々調べても詳細が出てこず・・

続きを読む

小島頓宮
2019年07月27日23:39

小島頓宮は南北朝時代の文和2年(1353年)に後光厳天皇が兵乱を避けて美濃国に行幸した際に設けられた仮の宮である。美濃守護・土岐頼康がこれを迎え入れて居城である小島城の近くに頓宮を設置し警護した。頓宮は建武3年(1336年)に頼康が僧・善育

続きを読む

二條関白蘇生泉
2019年07月27日23:19

文和2年(1353年)、南北朝動乱の最中に京で北朝が不利となり北朝の天皇として擁立されていた後光厳天皇は美濃守護・土岐頼康率いる3千の護衛に守られながら多くの公卿らと共に美濃国へ逃れて小島頓宮に落ち着いた。頓宮とは仮設の宮殿の意である。この

続きを読む

願成寺墳之越古墳群
2019年07月27日14:52

岐阜県池田町にそびゆる池田山。その東麓の扇状地には111基もの古墳が確認されている岐阜県最大の群集墳、「願成寺墳之越古墳群(がんじょうじにしつかのこしこふんぐん)」がある。このような大規模なものでありながら、古墳を積極的に調べたことがなかっ

続きを読む

瑞龍寺山頂古墳
2019年07月27日11:49

金華山の峰続きに瑞龍寺山という山がある。岐阜城の出城があったとも伝わり、かつて山上に水道施設の配水場があった事から水道山の呼称でも知られている。かつて金華山やその周囲の山には多くの古墳が築かれていたが、戦国期の稲葉山城もとい岐阜城の築城や近

続きを読む

長原川役所
2019年07月27日11:44

元和5年(1619年)、尾張藩に美濃5万石が与えられて岐阜城の城下町であった岐阜の町は尾張藩領となったが長良川役所はそれ以前から設置されていたようである。当初は長良川対岸の早田村に置かれていたが、寛永13年(1636年)に現在地に移った。こ

続きを読む

金華山
2019年07月18日23:59

5月中旬頃。岐阜市にある金華山は黄金色に染まる。岐阜城が築城された稲葉山は別名を金華山という。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで落城した事により廃城となり岐阜の町は江戸時代を通じて尾張藩の支配下となった。金華山は天領となって一般人の入山

続きを読む

三輪神社
2019年07月18日22:28

三輪神社は元亀年間(1570年〜1573年)に大和国からこの地の小林城に移り住んだ牧長清が生まれ故郷である三輪山に祀られている大物主大神を勧請して祀った神社である。江戸時代には尾張藩8代藩主・徳川宗勝を始めとして歴代藩主の崇敬が篤く、天保年

続きを読む

御船手役所
2019年07月18日22:25

須崎神社から戻ろうとした時、偶然発見。御船手役所は堀川沿いに築かれた尾張藩の役所で藩が所有する水軍の拠点であった。千賀氏が代々船奉行として艦船を管理しており弘化4年(1847年)の記録によると奉行を頂点に船軍者   1名船手改役  3名船手

続きを読む

廣井城
2019年07月17日23:59

廣井城は天文年間(1532年〜1555年)に土豪であった中村氏の居城である。中村元利は柳ノ丸(那古野城・名古屋城)の城代であった今川氏豊の家臣であった。氏豊は今川氏親の末子で今川義元の弟であるとする。今川氏の勢力が尾張国にまで延びていた頃、

続きを読む

那古野山古墳
2019年07月17日23:48

諏訪から帰ってきて再び長野へ行く間、名古屋は大須へ買い物へ。ついでに付近の史跡を巡りました。割と色々ある地域です。那古野山古墳は5世紀中期〜後半に造営されたと考えられる前方後円墳である。周囲には大須二子山古墳、日出神社古墳、富士浅間神社古墳

続きを読む

非常に長文の愚痴なので見たい人だけ見ていただければ良いです。■ブラック企業から転職を決意した瞬間「残業規制で朝3時出勤」「プレッシャーで十二指腸潰瘍に」(キャリコネ - 07月15日 10:10)https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=210&from=diary&id

続きを読む

塩尻峠古戦場
2019年07月15日23:19

甲斐国の武田晴信は諏訪氏を滅ぼして以降、信濃国へ積極的進出を行っていたが天文17年(1548年)、北信濃の雄・村上義清を相手に上田原の戦いで激突するが家老・板垣信方や甘利虎泰らが戦死し自身も負傷する大敗を喫した。これにより信濃国の反武田派は

続きを読む

兎田
2019年07月14日22:49

千鹿頭神社の前には兎田(うさぎだ)と呼ばれる地名がある。これは徳川氏の始祖となる松平有親・親氏父子が世良田性を名乗って諸国放浪を行っていた時、この近辺に居を構えていた旧知の林藤助光政(府中小笠原氏・小笠原清宗の次男)の元を訪れた。時期は年の

続きを読む

千鹿頭神社
2019年07月14日22:48

守矢氏の祖先とする洩矢神には守宅神(もりやのかみ)と多満留姫(たまるひめ)という2人の御子神がいた。守宅神は父から祭政官の地位を引き継ぎ、多満留姫は建御名方神(たてみなかたのかみ)の息子、出速雄神(いずはやおのみこと)に嫁いだ。そして守矢神

続きを読む

井川城
2019年07月13日23:35

建武2年(1335年)、足利尊氏の配下であった小笠原貞宗は数々の戦功により信濃国安曇野郡住吉荘を与えられて後に信濃守護となる。その支配拠点として築かれたのが井川城である。ただ築城年数については諸説あり「小笠原系図」には元応元年(1319年)

続きを読む

松本城4
2019年07月10日00:10

その後、堀田氏、水野氏と藩主は入れ替わり享保10年(1725年)、水野忠恒が江戸城内で刃傷事件を起こす。忠恒は幼少より弓・鉄砲の乱射や酒色に耽る奇行が目立っていたが前藩主・忠周の次男であったため最初は良かった。しかし享保8年(1723年)に

続きを読む

松本城3
2019年07月10日00:07

家督を継いだ石川康長は所領10万石の内、1万5千石を康勝、5千石を康次の2人の弟に分知して自らは8万石を継承した。父の代から続いていた普請を加速させるもその規模は石高以上の過酷なものであり、百姓人夫を酷使したと伝える。山林の木材や竹を惜しげ

続きを読む

松本城2
2019年07月10日00:03

なお、余談ながらこの数正はかつて家康の重臣で徳川軍の軍事機密を全て把握し「懐刀」とまで言われていた人物である。しかし原因は今持って不明ながらこれほどまでの人物が天正13年(1585年)に突如として出奔し、一族揃って秀吉に寝返った。前年頃から

続きを読む

松本城1
2019年07月09日23:59

現在、現存する天守閣が国宝に指定されている松本城。ネット情報では8時半からの開城だったのですがこの日?は8時から入れたようで半につきましたがGWとあって既に140分待ちの大行列であったため天守内に入るのは諦めました。まぁ2度入った事あるし。

続きを読む

渚城
2019年07月01日00:13

信濃国の豪族、小笠原氏は建武の新政の最中に信濃守護職に任じられたが中先代の乱で守護所が焼かれて没落し、そのまま南北朝時代が訪れて信濃国内の豪族たちは南朝と北朝に分裂して抗争が相次いだ。南北朝の統一が果たされると応永6年(1399年)、3代将

続きを読む

荒井城
2019年07月01日00:05

2回目の長野攻めの時、夜半から松本市へ攻め込みその後に再び諏訪へ。諏訪の話はまとめて乗せたのでここでは松本を紹介。運良く見つけた漫画喫茶で仮眠した後に松本城へ出撃、と思ったら地図上に知らぬ城址がいくつも出て来たので寄り道。荒井城は別名・清水

続きを読む