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2019年02月03日19:46

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横須賀城2

元和5年(1619年)、下総国関宿藩から松平重勝が2万6千石で入城し再び横須賀藩が復活するも子の重忠が4万石加増で出羽国上山藩に移封。元和8年(1622年)、井上正就が5万2千5百石で入り、2代藩主の正利は5千石を弟の正義に分与している。正利は徳川忠長事件で功績があり、奏者番に昇進したため正保2年(1645年)に2千5百石を加増され常陸国笠間藩に移封される。

そして三河国岡崎藩から本多利長が5万石で入るが暗愚であり、正室が早世すると遊女に700両の大金を払って身請けさせ酒乱・女色に溺れる日々を送って政務を顧みなかった。そのため家臣たちが専横政治を行って領内でのスパイ活動を行って密告を奨励し「法度百か条」を制定して厳しい統制を行った。延保8年(1680年)、領内に暴風雨と高潮が襲う大被害が発生した事を受けて領民たちの怒りは爆発し、幕府に直接の嘆願がなされた。そのため幕府は天和2年(1682年)に23か条の折檻状を出して利長を改易とするも後に出羽国村山藩主に復帰している。

本多家改易後、すぐさま西尾忠成が信濃国小諸藩から入り藩政が安定化する。2代藩主忠尚は西尾家歴代の中でも名君と称され、若年寄や老中を歴任していたため江戸暮らしが長く、その影響で江戸文化が横須賀にもたらされて繁栄を見せる。石高も5千石が加増された。しかし宝永4年(1707年)、宝永地震の発生により港が隆起して閉鎖せざるをえなくなり、それまで貿易中継拠点であった街から地場産業の街へと変わって行った。これに対処するために用水路を造って凌いでいた。4代藩主、西尾忠移(ただゆき)の正室は賄賂政治を行っていた田沼意次の娘であったため失脚後の相良城破却を務めている。忠移は蘭学を好み、殖産興業や漁業促進を行って西尾文化と呼ばれるまでに発展した。

幕末になると譜代の名門であった西尾家では家臣団が佐幕派と尊皇派に分裂して抗争となり、そうこうしている間に戊辰戦争が勃発してしまう。しかし尾張藩の説得などを受けて尊皇派に固まって行き新政府の東征軍に参加した。明治2年(1869年)、8代藩主であった西尾忠篤は安房国花房藩に移封となり横須賀藩は廃藩となる。

三重四階の天守があったと伝わっている。広大な平城であったが城内に松尾山と呼ばれる丘を取り入れるなど石垣もさる事ながら独特な作りが強い城である。
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