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2019年02月03日17:37

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十九首塚

十九首塚というおどろおどろしい名前はその名の通り19人の武将の首が埋葬されている事に由来する。その中の中心人物は平将門である。

承平5年(935年)、常陸国を初めとして関東一円を支配下に治めた平将門は律令国家に対する新たな国家を目指し「親皇」を自称して大規模な反乱を起した。これに対し朱雀天皇は将門討伐を発令し平貞盛、藤原秀郷を派遣して将門を鎮圧し天慶3年(940年)に勝利を収めた。

秀郷は19人の首を持って上洛を目指していた所、京から派遣された検視の勅使役と掛川で鉢合わせたため小川で首を洗って橋に掛け、首実検を行った。その後勅使役は首を捨てるよう命じたものの、秀郷は「将門は逆心なりとも名門の出である。その罪は重しといえども今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず」とこの地に19人の首を埋葬する事を決め、1人ずつ塚を立てて懇ろに供養した。碑にはそれぞれの名前も記されている。別説に京で晒首にされた首が故郷の関東を目指して飛び立ったものの、力尽きてこの地に落ちたと言われている。

その後、歳月の流れや土地開発の為に現在に移動し、地名も十九首(じゅうくしゅ)となった。また逆川が掛川城のある城山に当たって深い渕と崖をつくった事から鎌倉時代から懸川と呼ばれていた地名がいつしかこの十九首塚の方がメインとなって首を掛けた事から「懸川」から→「掛川」に変わっていったと伝わる。

またこの地は井伊谷城主、井伊直親が暗殺された場所でもある。永禄5年(1562年)に今川氏真から松平元康への離反が疑われた井伊直親を家老、小野政次が氏真に讒言した事から申し開きのため駿府へ呼び出されその道中、氏真の命を受けた掛川城主の朝比奈泰朝によって暗殺されてしまう。この時、共にいた18人も殺害され直親も合わせるとちょうど19人となる。そのため一説にこの十九首塚は直親たちの首塚とも言われていたりする。
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