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2018年05月07日16:24

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2007年4月22日、初めての短歌人東京歌会

ライティングデスクの抽斗の中があまりにむちゃらくちゃらになっているので少しは整理しようかと思ったところ、あ、こんなモノを買ったんだっけ、というのが出てきた。パソコンのUSBポートに繋いでフロッピーが使えるという器具である。前のパソコンではフロッピーが使えたのだが、それが接触不良のような状態になってしまったので、試しに買ってみたのだったがうまく作動してくれず、無駄なモノを買ってしまったと思ってそのまま放置したのだった。ひょっとして今のパソコンとは相性がいいかも? と思って試してみたら、なんと相性がいいのである。ひとしきり、かつて記録媒体はフロッピー(もまた抽斗の奥の方に…)、という日々に書いたものをいくつか呼び出してなつかしがってしまった。もちろん、これは改めて保存しておこうと思ったものは、今のパソコンですぐ読み出せる所に再度記録したのだが、その中のひとつに、11年前の4月、初めて短歌人東京歌会に参加した時のことを、あるお方宛に報告したメールの文面の記録があった。

あの頃はまだフロッピーを使っていたのだっけ? たぶんそうなのだろうと思うが、このところわが記憶力ははなはだ頼りない。が、初参加した時の東京歌会のことはよく覚えている。たしかこの日記にも、その思い出を記したことがあったが、はて、何時の記事だっただろう?(というあたりからまた記憶が…)

以下、そのメールの文面をそのまま引きます。相手の方のお名前はイニシャルにします。

[以下引用]

M様

本日、午後1時から7時まで、上野の東京文化会館大会議室にて、短歌人東京歌会に初めて参加してきました。6時間短歌漬けになるなんて初めての経験で、疲れましたがなんだかとっても爽快な疲労!という感じです。

参加者約50名、で、事前に各自一首送ったものが順不同匿名で掲載されたプリントが配布されて、良いと思った歌に点を入れるのかなと思いましたらそういう方式ではなく、席順にプリントの1首目から順にひとり1首ずつ解釈とコメントを述べるのだとのこと(もちろんそれぞれの歌について各参加者からの自由発言もあり)、全員の発言が終って最後にそれぞれの歌の作者を明かしてお開き、という段取りでした。ですからよくわからぬ歌に当たってしまってもその歌のコメントを述べなければならないこともあり、確率は低いですけれども自作についてどこかのどなたかの歌、というようなモードで何か言わなければならないという事態もあり、ということです。

私のコメントの順番に当たったのは、《曇り日の鬱ふくらみて紫木蓮咲きの盛りと言へぶあいさう》という一首で、私のコメントの概略はたぶんこんな感じだったと思います。……「ひと通りの意味はとりやすい歌だがストンとよくわかったとは言い難い。私は自然詠というものにはとても弱いので『咲きの盛りと言へ』というあたりの意味合いがいまひとつよくわからなかった。ぶあいさうという言葉を投げ出すようにして一首が終るのは、この歌自体もぶあいさうな感があるが、作者の気持ちはそうした歌の作り方を通しても表わされているのかも知れない。一首を通して鬱鬱とした気持ちは伝わってくるが、鬱ふくらむのでぶあいさうだというのは、ナニナニだからナニナニだという因果を言ってしまっているようにも思えて、鬱ふくらむと言わずに紫木蓮の咲きようだけを歌って鬱鬱とした気持ちが伝えられたらもっとよかったのではないか。それならお前がそれをやってみろと言われてもできませんが…」と、まあ、コワイモノシラズに述べたのでありました。最後に作者名を明かしたらこれは蒔田さくら子さんの歌で、あらま、蒔田さんのお歌にずいぶん勝手に言ってしまったんだなあと思いましたが、相手が蒔田さんだから失礼しましたというのもヘンだよねと思い、終了後、特に蒔田さんにごあいさつするようなこともしないまま帰ってきました。

ちなみに私が出したのは《目には乳を歯には緑を黙(もだ)といふ佳き便りには涙を捧ぐ》というもので、目には目を…ではなく、「乳」「緑」を(これは何でもよかったのですがともあれ人間にとってプラスになるような具体的なもの)、そして黙という便りにも…というちょっと切ない想いを歌ったつもりのものでした。「乳」は当然「ちち」と読むのだと思っていて、初句6音というのがこの場合どうなのだろうと惑っていたのですが、コメントに当たった方が「目には乳(ち)を」と読んでくださってその後の何人かの方の発言もすべて「ち」でしたので初句問題は自然(?)解消、ただ「乳」と「緑」がよくわからぬという意見が何人かの方から出されました。「佳き便り」というのは素直に言っているのか、それともこれもアイロニーなのか…と言われた方もあり、作者としては「黙が素直に佳き便りのわけがないだろうがあ!」などと思ったりしたのですが、川明さんが「切ない想いがよく伝わってくる」と言ってくださって、また長谷川知哲さんが「乳と緑はよくわからないが一首の中によくわからない部分というのがあってもそれはそれでいいのではないか」と言ってくださって、こんなふうに言ってくださった方のお名前だけはしっかり記憶したのでした(^_^;;

歌会は5時までで、5時から7時までは研究会、こちらは皆さま引き続き参加されたわけではなくて30人弱ぐらいだったでしょうか。谷村はるかさんという若い方のレポートで(あるいはMさんはよくご存知の方かも知れませんが)、最近の総合誌や同人誌の作品の中で「熱量」のある歌とそうではないもの、という趣旨のレポートでした。このレポートとそれをめぐる討論についてはここで正確にお伝えできる自信がないので省きますが、谷村はるかさんという方の第一印象…… 短歌を「楽しむ」などという域をはるかに越えてしまって現在の短歌状況と「闘う」という、つんのめりそうな鬼気迫る危機意識を発条としたレポート、総合誌にちょっとでもイイカゲンな歌を出す歌人なんて私は認めませんよと言わんばかりの殺気、へえ〜、世の中にはこういうひともいるんだあ、という驚きのようなものが先ずありました。小池さん、藤原さんも参加されていましたが、小池さんは歌会の時から終始厳しい表情で厳しい発言、藤原さんはどちらかと言えば歌の作者や先行した発言者に寄り添いながら自説を述べるようなスタンス、という印象で、私は藤原さんってもっとカミソリのようなことを容赦なく言われる方かというイメージだったところ、ちょっと実際は違ったかなあ、と思ったりもしました。

以上、何やらまだ熱気さめやらぬままのとりあえずのご報告でした。5月、6月の東京歌会も、幸い都合がつきそうな日程なので、月一度の短歌漬けの経験を続けようと思っています。それではまた…

2007.4.22

[引用終り]

「とっても爽快な疲労!」と言っているが、これは強がりというものだろう。何かもう疲労困憊して帰宅したのを覚えている。

川明さんは何年か前に他界されてしまったが、いつも東京歌会の窓際の前の方の席に座っておられて、活発に発言されていた。特に、短歌人メンバーどうしの挨拶歌のようなものが出されると、こういう楽屋落ちのようなものは断じて認められない、と川さんが強く批判されることが何度かあった。

そして、「谷村はるかさんという若い方」に、この時初めてお目にかかって、この日の研究会での彼女のレポートが僕にとっては相当なカルチャーショックだった。その谷村さんは(短歌人メンバーの方は今年の4月号の「編集室雁信」ですでにご存知の通り)「考えるところがあり、短歌および言語〈表現〉行為と当面離れることを決めた」とのことで、大変に残念なことだが、自らに対しても真摯になすべき方位を問うた結果の判断なのだろうと思い、せんかたなきことだろうと思う。

が、〈表現〉から離れたままの谷村さんというのは、どうも考えにくい。しばしお休みされたら、再び何らかのかたちで(短歌ではなく別のフィールドかも知れないが)帰ってきてくださるのではないか、そうあってほしい、と思っている。


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