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2016年04月17日09:54

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「短歌人」の誌面より(95)

2016年4月号より。

哀しみを餌となし輝く青孔雀道の真中をのつそりと来る   川井怜子

…春のプロムナード「春の音」より。動物園に取材した何首かの中の一首。あの動物たちというのはおおよそ哀しいものだが、「哀しみを餌となし」というフレーズ、上手く言ったなあ、と思う。その哀しみの青孔雀ではあるが人間のわれを押しのけるようにして輝きつつ「道の真中をのつそりと来る」。矜持という語が改めて思われる歌だ。

仰向けの人体のごと鎮まれる一脚の椅子に冬光の澄む   木戸 敬

…不思議な比喩の歌。普通、椅子を喩として人体を言うだろう。この歌では語の配置が逆。さればこの「仰向けの人体」は死体だろうかとも思われてくる。そこへ慈しむようにして「冬光の澄む」。「冬光」は「ふゆかげ」と読むのだろうが、この歌の場合、あえて「とうこう」と固く音読みにするのが似合うように思う。

早朝のひかり差し込む部屋内に晩年といふゆたかさにゐる   山中重子

…境涯詠かくあるべし、と思った。この歌をもっと具体に即してぐじゃぐじゃ言えば、そんなことは歌にせず日記に書けよ、というようなことにもなりかねないところ、節度を保った抽象度の語を上手く配して、「ゆたかさ」が読者に伝わる一首だ。僕も晩年の頃には(いや、今がもう晩年なのかも知れないが)こんな境地でありたいものだと思う。まあ、たぶん無理だろうが。

黒蜜のやうなる闇の来るまへにひとつの雲がながくかがやく   金沢早苗

…映像がカラーで濃密に残る歌だ。「黒蜜のやうなる闇」というフレーズはさして斬新なものとは言えないかも知れないが、4句〜結句が印象的だ。思えばこの歌は「闇」が来てからの回想のかたちで詠まれているのだが、いかにも現在進行形のように感じられる。こうした時にはせつなさを言いたくなるところ、「ながく」がいい。

ざらざらとざらざらとその身削らせて枯れ落ち葉流れ、流れ、とおのく   鈴木杏龍

…舞台裏のようなことを言えば、僕はこの記事で「短歌人」誌上の所属欄(同人1、同人2、会員1、会員2)には一切触れていない。それは単に結社の都合による分類であって、読者はそんな分類にはかまわずただ作品を読むのだと思うからだ。が、そうは言いながらも今月号を読んでいて会員1欄からはついに1首も拾う歌がなかったのかなあ、と思っていたところ、会員1欄のラストでこの歌に出会った。杏龍流ラップ短歌健在なり、だが、ただ飛ばせばいいというものではない、というような呼吸もわきまえてきたのかな? と思う。

きんにみづひかるゆふぐれこはれてもかまはなかつたうつはのなかで   柏木みどり

…柏木みどりさんの5首は読者を圧倒するパワフルな一連だ。1首目「飲食よアケルダマから来てわれは鳥や魚や葡萄酒を欲る」にて人間存在のあやうさを「飲食」という切り口から言い(この切り口自体は繰り返し言われてきたものだが)、2首目「竜の背は怒りにねむりに照るものを海岸線はひらかれつぱなし」にて国家のあやうさを言い、そしてこの「きんにみづ…」の3首目では物質自体のあやうさを言う。ここまで言ってしまったらもうその先はないので、4首目、5首目では微かな一縷の希望のようなものが詠まれている。が、その希望はむしろ不安感を増幅する態のものだ。柏木さんは詩と思想を兼ね備えた詠み手だなあ、と改めてよくわかった一連であった。

彼方とう苦しい距離で凪いでいる 笹井宏之 冬の五線紙   高良俊礼

…笹井宏之へのオマージュの一首。彼はすでに彼方へと所を移して凪いでいる。そのへだたりを「苦しい」と感じるのは、あくまでもこちら側に在る者の感覚だろう。笹井は音感の良い詠み手であった。それを世界の音を写し取る五線紙と詠んだ。彼方の笹井も嬉しく思うだろう。その五線紙が置かれている季節は、寂しくもしかし新たな命が準備される冬である。そう言えば指揮者の岩城宏之と同じ「宏之」だったんだ、などと気づいた。一点、「とう」という語がやや浮いているように感じる。そもそも新仮名表記に「とう」は似合わない。初句6音でかまわないので「彼方という」とした方がいいと思う。

仕事帰りに寄りて呉れし男(ひと)座つたまましばらくを深深と眠れり   栗林菊枝

…その「男」との関係は読者の想像に委ねられている。やはりただの知人や友人というわけではなく(およそ男女の間に友人という関係は成り立つのか、とかいう話は措くとして)、うっすらと愛恋の関係を思わせるシーンだ。ただ、愛恋の真只中ではないことはわかる。寄って呉れたのに、仕事の疲れで座ったまま深く眠る男。眠るがままにさせるわれ。「深/深」の句跨りによってわれの若干の気持ちの動きが伝わる。人生の年輪を重ねるとこんなふうに詠むこともできるんだなあ、と思う。若い世代の詠み手にとっては、何か遠い世界を垣間見たような気持ちになる一首かも知れない。

ひときれの皿にしずもる紅鮭にノルウェー沖の怒濤をおもう   松村 威

…想像力の飛ばし方がいい。掲載7首の1首目。以下この歌を受ける歌が4首続く。先日、短歌人東京歌会で松村さんに会って、紅鮭の一連、良かったよ、と言ったら、ああいうふうに一首独立ではなくて一連の文脈に依存してしまう歌というのはどうなのかなー、とも思ってるんだけれど…と言っていたが、僕は少なくとも「短歌人」誌上のような場であれば、一首独立では読めない歌もあって良いと思っている。

たつた二段の脚立にのれば天井にも手は届くなり自己啓発風に   吉岡 馨

…毒のある結句によって強烈な批評の歌となった。そうだ。自己啓発とかいう類の言説は「たつた二段の脚立」にすぎない。ところがそれは「天井にも手は届く」ような気分にさせてくれるのだ。あやしげな言説を垂れ流す者たちよ、人間を舐めてかかってはいかんよ、という歌。

転び泣く子供に駆け寄り「可愛い」とまづ泣く写真撮るははははは   西橋美保

…春のプロムナード「夢前(ゆめさき)の鹿」より。今どきいかにもありそうな場面だ。それを「ははははは」という5音で上手く引き取っている。一読、「ひら仮名は凄(すさま)じきかなはははははははははははは母死んだ」(仙波龍英『墓地裏の花屋』)が想起される。この西橋さんの歌の「ははははは」にも「母」が潜んでいるのだろうが、「母」と書くのはためらわれる、これはもう「ははははは」と笑っちまうしかないじゃないか、ということだろう。しかり。世界はそうたやすく〈美〉には回収されないし、回収させてしまってよいことにはならない。

欠けてゆく月の放てる音を聴き祓はれしものら峠に向かふ   勺 禰子

…同上「音がゆれる」より。そう、そう、僕もこういう歌を詠みたいんだ、と思った一首。「祓はれしものら」という語がやや直截かも知れないが、時にこのぐらいに言ってもいいのではないかとも思う。祓ひしものらの頭上には満ちてゆく月があり美しい音が響くのだろう。欠けてゆく月の放つ音とはいかなる音だろうか。祓はれしものらが向かう峠は、勺禰子さんが好んで詠む暗峠(くらがりとうげ)だろうか。祓ひしものらは世界を美しく詠むだろう。が、僕は祓はれしものらの詠む歌を聞きたい。


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