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2026年01月17日00:09

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藪の中の金剛力士

次のターゲットへ向かおう。
真貴大堂(まきおおどう)からそんなに遠くないところの道路わきに、元宮摩崖仏という中世に彫り込まれた小ぶりの石仏がある。
そのすぐ隣に、妙に新しい外壁に囲まれた神社があり、どうもそこは田染(たしぶ)八幡宮であるらしいのだが、ついでにと境内を見学していると、向こうの藪の中に、誰かがニュッと立っているのに気がついた。
えっあれ何!?
一旦外に出て垣根を廻り込み、最も近づいて撮った写真がこれ。
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近づくとかえってわかりにくいが、金剛力士の阿吽の吽(ウン)像だった。
境内には一対の金剛力士像があるので、この像にも相い方の阿像があるはずだが、どう見まわしてもこの一体しか見当たらなかった。
フォト フォト ←これが境内の一対
どんないきさつがあったのか。
宮自体も、近年つけかえられたであろう外壁以外は、あまり手入れがされていないようだった。

今回の国東半島で巡った寺や神社には、こうした金剛力士のペア、鳥居、そして独特の石塔が必ずと言っていいほど置かれていて、お参りする際にも、えーとここはお寺だっけ?神社だったっけ?と、柏手を打ったものか両手を合わせるにとどめるべきか、一瞬とまどう処が実に多い。
もう見事なまでの神仏混交のありようだ。
そして、それはイコール、明治の廃仏毀釈の大嵐へもつながっている。
金剛力士像は寺の門前に立っているのが普通ではないかと思うが、ここ田染(たしぶ)八幡宮にも1.5ペアが残されている。
近くの寺院から移されてきたものではないのかな。
けれど、うち捨てられてしまったかのような片割れがあったり、境内の阿吽の像も苔むして風化が始まり、積極的な手入れはされていないようすだ。
さらに、近年の過疎化(=人手不足)と財政難はきっと深刻なのだろう、どの寺にしても神社にしても、手入れがなされず傷みが激しかった。
藪の中の吽像の異様なさまを見て、思うところはいろいろあった。

そんなことを考えながら見学していると、真木大堂で会った四人組が追い付いてきたので、展望台登ってきました、薦めてくれてありがとうございますと礼を言っておいた。
宮の正面は、かつてきちんとした参道があったらしく、石造りの二の鳥居、一の鳥居が遺っている。
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さて、では次。
富貴寺(ふきじ)だ。
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ここの大堂(おおどう)(阿弥陀堂)は国宝である由。
なるほど、屋根の先が少し反り返ったフォルムは、洗練を極めたかのように美しい。
そしてありがたいことに、前立本尊であろうと推察されるおネコ様が自ら降りてきて恵を垂れてくださった。
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ここにも裏手に奥の院があるそうなので、ええいこうなったらもう全部登ったるという勢いで、岩屋もお参りしてきた。


さて、ではいよいよ宇佐神宮に向かうか。
レンタカーを転がして、ちょっとだけ安い方の駐車場に止めて、やんごとなき人(勅使ら)だけが渡る呉橋(くれはし)の隣にかかる神橋を渡って境内に入る。
表参道の大鳥居をくぐって入る方がメジャーらしく、こちらにはほとんど人がいなかった。
(奥が呉橋)
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・・・中は一通り見学したのだが、宇佐神宮の印象は不思議なほど残っていない。
ここのご祭神は、応神天皇の神霊である八幡大神なのだが、日本書紀で読んだ応神天皇ことホムタワケと、母親の神功皇后ことオキナガタラシヒメのイメージが、宇佐神宮ではなかなか結び付かないのだ。
ここはどちらかというと、「八幡さま」、そしてあの道鏡の天皇即位を阻んだ和気清麻呂(わけのきよまろ)の働きといった、政治的・軍事的な事柄に思いを馳せるべき処なのかもしれない。
目下続日本紀(しょくにほんぎ)の講義を受けている真っ最中なのだが、聖武天皇はまだ少年で、のちに彼の娘といい仲になる道鏡が登場するまで、そうさな、まだあと二年か三年待たなければならないのです。先は長い。

近くの大分県立歴史博物館や宇佐神宮の中にある宝物館なんかを先に見学しておけば、もうちょっと参拝が有意義になったかもしれないのだが、旅程を組んだ時点で博物館は年末休館、宝物館は15時の閉館まであと10分みたいなタイミングになってしまい、ゼンゼンお勉強ができなかったのだから致し方ない。
ただ、大鳥居の近くに黒男(くろお)神社というのがあり、そこは神功皇后の片腕として仕えた武内宿禰(たけのうちのすくね)を祭った社なのだが、神功皇后が生んだ応神天皇の実の父親は彼なんじゃないの的な勘繰りが一部でありましてね、その意味でもいろいろとフフフンな印象は持ったわけであります。

というわけで、お昼を食べていなかった我々は(そもそも国東半島で食べ物屋的な店はほとんど目にしなかった)、早くも店じまいが始まっている仲見世でねぎ焼きを半分コしながら休憩した。
境内を出る際に、なんと正面から白鷺がフワ〜っと翼を広げて我々の頭上を飛び越していった。
そういえば、熊野の速玉大社では、大きなカラスが猛スピードでやって来たのだった。
日本の神話には、ヤタガラスや、神武天皇ことカムヤマトイワレビコを救った輝くトビ、ヤマトタケルが変化した白鳥など、トリに関する神秘的なエピソードがとても多いのだ。
奈良の三輪山の近く、山の辺の道の古墳の上にはコウノトリがいたし、こうした場所で大きなトリと出会うと、なんとなく神様が「いる」という気にさせられるものだ。
うん、いい経験だった。


さて、では宿に向かいますか。
ガイド本代わりに携えてきた山川出版の『大分県の歴史散歩』をめくってみたら、この近くに「凶首塚古墳」なる魅惑的な名の遺跡があることに気がついた。
その隣に「百体神社」があるらしいから、ついでに見ていくか。

カーナビに従って、ここ入っていいの?というような道を恐る恐る進んでちょっと引き返したりしていると、目指す凶首塚(きょうしゅづか)古墳に到着した。
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うわ!
これ、飛鳥の石舞台古墳みたいだ!
そうとうに力のある豪族の首長か誰かの墓だろう。
伝説では、九州南部のまつろわぬ民、隼人(はやと)を征伐してその首を埋めた・・とあるらしいが、年代が合わないらしい。

隣にある百体神社も見学してみたら、古いけれど意外に立派な本殿があり、その手前には、お神楽の舞台としか思えない簡素な建物がある。
へぇ〜、こんなところで奉納神楽かぁ、などと思いながら道に出ると、なんと!その細い道のまっすぐ向こうは、さっき我々が宇佐神宮に出入りした呉橋(実際に渡ったのは隣の神橋)ではないの!
その道、勅使街道がまっすぐここにつながっていたのだった。
しかしなんだ、この位置関係は不思議だな。

そうだ、すぐ近くにもう一つ遺跡があるのだった。
「化粧井戸」といって、ガイドによると、百体神社で舞を奉納する傀儡子(くぐつし)らが人形に着物を着せたり化粧を施したりするための、いわば楽屋であるらしい。
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なるほど・・・。
勅使街道を直進して宇佐神宮に至る途中にある、百体神社と化粧井戸、そして主のわからない古墳。
古代においてはただの平野、ただの川、ただの道なんてものはなく、どれも霊的な意味を帯びてそこにあるという事実に、あらためて戦慄した。


これにて本日の名所めぐりは終わり。
おんせん県大分は国東半島の源泉かけ流しの宿では、事前の悲観的予想をさらに下回る料理が我々を待ち受けていた。
でもいいのだ、お湯が一流ならば。
年末間際になって予約できただけで御の字だ。
前日の宿はトロトロ感、今日の宿はキシキシ感のあるお湯だった。
ちなみにこの日、地域の渇水のおかげで外来入浴は休止しているとのことで、ほとんどの時間で湯舟を独占できたことは喜ばしい。
源泉をペットボトルに詰めて持ち帰り、年明けに温泉粥を愉しんだのはいつものことだ。

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つづく



(1)ちょっくら小倉
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1991407576&owner_id=24016198
(2)摩崖仏と不動明王
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※参考 奈良・山の辺の道のコウノトリ
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977880616&owner_id=24016198


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