mixiユーザー(id:6327611)

2024年03月20日02:41

35 view

観客を煙に巻いて喜ぶ作り手は、実は本当に描くべきドラマというものを作れない無能な映画作家である。オリヴィエ・トレネ監督「ジュリア(s)」(2022)。

まず、人生というものは一人の人間に対して一つしかないものです。それをパラレルに描くという手法は、それなりに楽しい場合もある。たとえばピーター・ハウイット監督の「スライディング・ドア」(1997)では、地下鉄に乗り遅れた主人公と間に合った同人物を並行描写することで、人生の機微を楽しませてくれました。

今回はジュリアという女性のパラレルな人生を描くのですが、分岐点が“ベルリンの壁崩壊に立ち会えたか、立ち会えなかったか”とか、ピアノ・コンクールに成功したか失敗したか、など本来ドラマとしてきちんと描いて盛り上げるべき部分を分岐点にしているため、たとえばベルリンの壁崩壊というせっかくのドラマがきちんと生きてこない。

コンサートに失敗する(あるいは成功する)というのも、実に陳腐な展開にしかならない。つまり本来なら、同時代を生きた別々の人生の群像として描けば、もっと説得力のあるドラマが出来上がるはずなのに、それをことさら一人の女性で描くから、僕のような観客はどれがどれか区別がつかなくて、途中でぶん投げようとまで思ったのです。

たとえばシドニー・ルメット監督の「グループ」という映画を思い出してもらえばいい。これは女子大を卒業した8人の女性たちそれぞれを追うことで、8つの人生を浮き彫りにし、その時代が浮かび上がるわけです。それなのに今回はジュリアを同じ俳優に演じさせて、しかし多様な人生を観客に納得させる基本を忘れている。

「ジュリア(s)」って何だよと思って見始めた僕は、その“(s)”が複数形だと分かってアホらしくて、がっかりしました。作り手は自分で作っているから、さぞいい気分でしょうよ。見ている側の気持ちや感触を弄ぶなんて、クリストファー・ノータリン監督の無謀さと同質ですわ。ヒッチコックの“観客を神の位置に”という金言を忘れるな。

ということで、こういう“作り手のわがまま”に金を払う気は僕にはありません。とっとと名前をオリビエ・撮るなに改名して、映画制作から足を洗いなさい。この手法を真似た作品が「TOKYO月一映画祭」に出てきたら、僕はこてんぱんに批判しますからそのつもりで。

とはいうものの、アニメでパラレルワールドを展開する作品があり、それはそれで息子と一緒に楽しんで見た記憶があるな。フランスでは日本の漫画やアニメが“先端文化”らしいので、それに影響された嬉しがり屋がこの映画を作ったのかも。しかし描くべきはパラレルな世界ではなくて、人物内のパラレルな葛藤なのですよ。それすら理解できない人間が、嬉しがって映画を作るんじゃない。

ということで、良い子は手を出さないでね。もしかしたら“分からない”と自分を卑下した人間が、最初は嘔吐したにも関わらず17回見て“最高傑作だ”とのたまうかもね。今年作品賞を取った映画を、“私は6回見て初めて細部まで理解できた”とのたまっている映画評判家がいたわけですし。ま、どんな映画を喜ぶかは、好き好きだと言えばそのとおり。

とりあえず5種類のオリジナル・ポスターにある惹句を、グーグルさんに翻訳していただきました。それを列記しておきます。()内は、僕のチャチ。

et si vous aviez fait d'autres choix?
他の選択をしていたらどうなっていましたか?(別人の人生として描き、歴史のうねりを感じさせろ)

toutes les vies d'une femme racontees en une
一人の女性の人生のすべてがこの一作で語られる(もっと無限にパラレルにできるでしょ)

un vrai torrent d'emotions
本当の感情の激流(どれもこれも陳腐でつまらん)

une vie, d'infinies possibilites
一つの人生、無限の可能性(可能性はあるけれど、やり直しは不可能)

une ode a la vie qui va frapper en plein coeur
心に響く人生への賛歌(独りよがりで悦に入っている人、つまり作り手の個人的意見ですな)
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2024年03月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31