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2024年03月13日03:42

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とりあえず“日本語字幕付き”で見て、なんとか全貌がつかめました。WOWOW版「第96回アカデミー賞授賞式」(2024)。

今回の最大の問題は、僕の耳が英語の話者と日本語の翻訳者の声を聞き分けられなかったということに尽きます。しかし英語を聞きながら日本語字幕を読む行為は、日常の映画鑑賞でほぼ毎日続けていますから(“ロスト・イン・トランスレーション”はあるとしても、最小限にとどまっています)、実にスムーズでした。

そこで浮き上がってきたのが、司会者が語る言葉の中身の問題(彼が自分の言葉で喋っているわけではないから、そもそもの台本を書いた人々全員の責任ですが)でした。いろいろチクチクと“批判的な”言葉を吐くのですが、それが僕には“無意味な皮肉”にしか思えません。

たとえば、「哀れなるものたち」に対して、“R指定の場面は放送できなかった”という言葉がありました。テレビという放送媒体で、全世界のお茶の間に届けている番組なのですから、僕にはその指摘は“無意味な皮肉”でしかない。つまりラストに“ある人間”のツイートを紹介して、自分に対して“批判”しているかのような言葉がありましたが、毎度事実無根の戯言を操る元大統領と、あの司会者は同次元にいたという証拠に思えました。

そして作品賞のプレゼンターとして登場したアル・パチーノに対し、今更「ゴッドファーザー」のテーマを奏でるという姿勢も、僕には“情けない”発想に思えます。それに対してパチーノに“シェークスピアを語ろうか?”と言わせる“安易さ”が面白くないのです。

つまり今回、僕の目が釘付けになった最大の場面は、スタントに対する“敬意”を表明したシーンで、ビルから飛び降りたジェイソン・ボーンが隣のビルのガラス窓を突き破って追手から逃げ延びるシーンを、彼を追うカメラオペレーターがビルの隙間で宙吊りになる寸前にカットを切り替えていた、あの場面の撮影法でした。

今まで何度も、“アカデミー賞にスタント部門がないのは不自然だ”という意見があり、実際にスタント関係者たちだけによる“スタント大賞”というものが作られた時期もありました。しかし、それに対して映画芸術科学アカデミー(Academy of Motion Picture Arts and Sciences)は、“危険を競い合うことは好ましくない”と反対してきました。

来年からは“新部門”が設けられるそうですが、それがスタント部門かどうかは定かではありません。しかし俳優が演じるところでのスタントだけでなく、撮影スタッフたちのスタントまで実施されているわけですから、それらの人々に対する興味本位な取り上げ方は止めてほしいと思います。

冒頭に、脚本家たちのストライキを支持したスタッフを壇上に並べるのも結構ですが、もっと本質的な部分での“意思表示”をお願いしたいと僕は思う。要するに、近年明確になってきた“アジアびいき”的な授賞が、今回は日本に対して追い風だったからと言って、手放しで喜んでいいのかと思うのです。

今回のアカデミー賞授賞式では、マーティン・スコセッシの「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」に対しての言及(そして授賞)が皆無でした。アジア作品に注目させてアメリカ先住民問題はパスなのかと邪推したくなる。アメリカン・ニューシネマの中心人物の一人であるスコセッシに対し、2006年の香港ノワールのリメイク作品のみという授賞を、きちんと考え直すべきではないでしょうか。

何を言っているのかわからない方には、こう言い換えましょう。かつて1950〜60年代のアカデミー賞は、映画芸術科学アカデミーが“商売以外の作品評価”を(アメリカ中心に)発表していたのですが、21世紀になって世界規模の視点を持ったかに見せているけれど、実は商売上の理由でしかないのだ、と。

今回の式次第の台本が、まさにその姿勢で貫かれていると僕には思えます。脚本家の高田宏治さんが自分たち東映のヒットシリーズに対して、“あのシリーズはエンターテインメント(娯楽)ではない、アミューズメント(遊戯)だ”と発言しておられましたが、まさにアカデミー授賞式そのものがアミューズメントであり、いまや世界の映画がこぞってアミューズメントになりきっているのです。

僕の言い分が正しいかどうかは、これから公開される(あるいは既に公開した)受賞作を見れば明らかになるでしょう。その前に僕は、誇張したメイクや衣装、そしてやたらとカメラを振り回す新作群に、とことん嫌気が差しています。あるいは某映画解説者が“私は6度見て、ようやく作品の意味が分かった”という程度の映画を、追いかける必要があるのかどうか?

それならば僕は、一般的には受けていない自主映画制作者と、映画について語り合うというささやかな幸せの方を重視したいと考えています。だって、気持ちが通じ合う映画と出逢うことが、映画の本質だと思うもので。だからエマ・ストーンには、ドレスが破れたことを気にしないで、あの会場に集った“映画人ゾンビ”たちに対して、“ダブル・タップ”を連発してほしかったのです。

もっとも、“多数意見”に浸って自らの立場を正当化したい方は、どうぞご自由に。そういう方々とは、サイナラ、サイナラ、サイナラ…。
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