物事を学ぶことについて、言い換えると自分の中に何か知的なものをインプットするというシチュエーションにおいて、読書が優れているように思えたので「なぜ読書は深い学びを得ることができるのか?」という問いを立てて考えてみました。
この問いに対する答えは、読書を行うには必然的に主体性が伴うから、なのだと私は考えています。
例えば、新しい知識を得たい時、私たちは本を読んだり、記事を調べたり、他人の話を聞いたりします。(ここでは話を単純化するために経験を積むこと、つまり実践を通じた“感覚“のインプットは除くことにします)
社内研修でよく聞く話は、なんとなく講師の話を聞いて、グループワークをしたら研修が終わっていて何も記憶に残らず、その後の業務にも活かされなかった、というパターンです。
せっかく時間をかけてインプットしたはずなのにどうしてほとんどの社員に定着しないのか? 聞くことによるインプットはあまり効果がない? でもなんでだろうか?
その理由は、聞くだけの学習は、受動的であり、主体性が不足しているからだと私は考えました。
反対に、物事を学ぶ(インプットする)ことにおいて、読書は優れた学習方法なのではないかと私は考えています。
なぜなら、読書は文章を読み進むという行為自体に主体性が自然に求められるからです。
日本人は受験勉強の過程で多くの書籍を読んだり解いたりして、主体性を発揮して学習をしてきたはずですが、社会人になってからそういった学習をする機会を失う人が多いように思えます。
今日の多様な学習方法の中でも、読書はその主体性により、本質的な学習効果をもたらす優れた方法として考えられます。
以上
【最近のGratitude】
・No Sounds
I usually walk while listening to music or podcasts, but sometimes it’s nice to walk in silence. It allows me to think. I can engage in repetitive, seemingly meaningless contemplation that I usually don’t do.
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