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2023年12月13日09:53

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信州人の心意気

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司馬さんは「信州佐久平みち」の中で、自分は大阪の在のため信州という土地柄には不案内だと記している。それでもその地に居住していた先人や現代の人々には敬意を払っている様子がそこかしこに窺える。

たとえば真田昌幸。徳川家康に二度も苦汁を飲ませ、石田三成をして"表裏比興(ひょうりひっきょう)の者"と評されるほど警戒もされ、武将としての力量も高く評価された。律儀者の多い信州人には珍しい、戦国の申し子ともいうべき油断のならない人物だった。

反面、若い頃薫陶を受けた武田信玄を生涯敬愛し続け、後半生の君主であった豊臣秀吉に没した後まで忠誠を誓っていた。その点を考えると、単に煮ても焼いても食えないという表現だけでは収まり切れない、昌幸の人間的厚みが窺えようというものだ。

昌幸の次男である信繁(後の幸村)が徳川の世が固まりつつあった時勢の中で、あえて豊臣秀頼方についたのは牢人者として食い詰めていたという事情もたしかにあろう。同時に秀吉以来の豊臣家に対する忠誠心が、彼の心を突き動かしたのに違いない。この事はかつてその父・昌幸が六文銭の旗印の下(六文銭は元々、真田の旧主海野氏のものだったと言われている)、上田周辺の豪族を団結させたのといささかながらも符号する。

信州といってもさまざまだ。上田など真田氏が領していた地などは信玄に服していたが、佐久平では悲惨な戦体験などから未だに信玄が憎まれているという現状がある。それでも殊真田氏に話が及ぶと上田だけでなく信州全体が一致団結するかのように見えるのは、昌幸・幸村父子(特に幸村)に対して信州人の典型を見るような好もしさを感じるからであろう。その点に信州人の純朴さと心意気を感じるのは、筆者一人だけではあるまい。
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