mixiユーザー(id:21651068)

2023年10月15日02:45

15 view

竹内栖鳳

半数近く展示替えがあるので見たい作品がある場合は要注意です。

京都市美術館開館90周年記念
竹内栖鳳
〜破壊と創生のエネルギー〜
@京都市京セラ美術館
フォト



1864年京都生まれ、文展・帝展それぞれの創設から終わりまで活躍し
第1回文化勲章を受章している日本画壇の重鎮。
初日に行きました。

【展示構成】
第1章 栖鳳登場〜京都画壇の麒麟児
第2章 栖鳳世界へ〜まだ見ぬ美術を求めて
第3章 日本画は一度破壊すべし
第4章 躍動する写生
第5章 栖鳳、旅に出る〜心の風景を探して
参考資料 写生帖等



観覧に先だって講演会を聴きました

栖鳳の芸術について
平野重光(美術品家 元京都市美術館学芸課長)

カメマサという料理屋に生まれた栖鳳は
10歳のとき出入りの友禅業者が目の前で杜若を描くのを見て感動し、絵を志します。
栖鳳という雅号は師である幸野楳嶺がつけたもので
はじめは"棲鳳"でした。
ゆえに初期作品は"つまほう時代"とも言われます。

徹底した写生主義で
幸野楳嶺は栖鳳の結婚祝いに『鳳凰図』を贈っているのですが
栖鳳自身は「見ないものは描かない」と言っていたとのこと(クールベみたい)。

32歳で師が没すると工芸学校の教師になり
1900年にはパリ万博に出品するとともに渡欧。
講演会では渡欧前、後、文展帝展時代と時系列に沿って作品画像を紹介しました。

平野氏の推し作品は
・雨(1911)〜第五回文展出品作。高瀬川五条を描いた水墨。

また、22歳と11歳という時代から俳人の大谷光演と交遊があり
写生の栖鳳は俳句の自然を捉える姿勢に学ぶものがあったのではないか
というご意見で

花になく鶯 水に住む蛙の声をきけば
いずれか歌をよまざりける、
という古今集の言葉を
日本人の自然観として引いていらっしゃいました。

*****

講演会のあと会場へ。
この順番は珍しい。

以下心に残ったものいくつか。


まず初期では
・芙蓉(1882)
17歳のときの水墨淡彩。「幸野私塾」という印を確認。
後輩の参考作品として画塾に残されたためです。

・百騒一睡(1895)
左隻に雀が93羽、
右隻に4羽、仔犬が3匹、眠る親犬1匹 であることを確認。

・観花(1897)
上島 鬼貫の俳句を依頼で骸骨が扇を持つ姿に描いた異色作(フライヤーに画像あり)。
展覧会には「裸体でも出せないのに」、と主催者か展示を拒否したと言います。
後期展示のためみられなくて残念。

渡欧後の作品では

・ベニスの月(1904)
高島屋依頼のタペストリー下絵。
大きさに驚きました。
サイズ感は実物からしか得られないものですね。

・雄風(1940)
蘇鉄に絡んで2頭の虎が躍動します。
これはよかった。

12月3日まで。
https://kyotocity-kyocera.museum/exhibition/20231007-20231203

*****

ザ・トライアングルは

山本雄教が1円玉のフロッタージュで作品が経済活動と切り離せないことを示します。
これは竹内栖鳳の像を濃淡で表した
『7380円の芸術家』
フォト




*****

講演会の際

永く京都市美術館に勤めた平野氏が

京都市美術館は京セラに 50億円/50年で名前を売ったのです。
お蔭できれいになりましたが
…何だか娘が苦界に売られてきれいになって現れたようで
…どなたか50億円(いや3年経ちましたので47億円ですか)
お持ちの方がいらっしゃいましたら
(名前を)買い戻していただけないでしょうか
等と冗談を仰っていたのが面白うございました。

3 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する