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2023年03月15日03:27

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神だとか冒涜だとか、そんな世界とは別に“信じること”の“意味”を感じ取りましょう。ポール・バーホーベン監督「ベネデッタ」(2021)。

17世紀、ペストが蔓延したイタリアでの物語だそうです。僕はその時代について詳しく知らないのですが、キリスト教というものが世の中の決まりごととして機能していた時代だったという感じに理解しています。そんな時代に、幼い少女ベネデッタが修道院に預けられる。←金持ちの娘だけが入れたようです。

冒頭、娘を修道院に預けようとする夫婦と娘の一行が盗賊に遭います。そして修道院に入ってすぐ、マリア像に祈る幼いベネデッタが倒れてきたcマリア像の下敷きになるのですが、不思議なことに怪我をしません。そして18年経ち、ベネデッタ(ヴィルジニー・エフィラ)は、羊飼いの父親たちから逃げてきた若い娘バルトロメア(ダフネ・パタキア)の指導係となります。

バルトロメアは父親や兄たちの慰みものになっていたそうで、ベネデッタを慕い、ベネデッタもバルトロメアを受け入れる、という展開でした。とりあえず修道院がベネデッタの父親に寄進を要求し、父親がそれを値切ろうとすると修道院長が“値切るとは何事か”と切り返す。そんな下世話なやり取りが変に面白く感じられたので、僕は2時間を超すこの映画を全編見続けました。

つまり舞台が修道院であり、神の教えなど戒律が細部にわたって支配している世界ですが、そこにいるのは人間なのだという通俗的なドラマだとしか、僕には考えられないのです。だから、社会の規範と生活との折り合いという発想でこの映画を見ました。若いバルトロメアが性愛に通じていて、ベネデッタは指導役だけど手ほどきされる側なのです。

とはいえ、修道院長がシャーロット・ランプリングですから、一筋縄で行く話ではありません。ベネデッタは次々とイエスの夢を見、イエスの言葉を聴くのでした。そしてベネデッタには聖痕まで出来る。ここで修道院を管轄する司祭が、ベネデッタの言葉を認め、自らの出世の武器にしようとし、修道院長もそれを助けるのでした。

そんな修道院の物語を、神と親しんでいる方々がどう考えるかは僕には関係ありません。僕には単に、ふたりの若い大人の恋と、通俗的な院内外の駆け引きなどがユーモラスに受け入れられたというだけ。さほど乗り込めたわけではありませんから、数週間もすればこの映画を忘れているかもしれません。

つまりバーホーベン監督には「エル ELLE」(2016)という強烈な作品がありましたが、あの映画ほどのインパクトは感じていません。そしてその前の「トリック」のような手の込んだ手品の妙味もありません。しかしたまたまアカデミー賞で「エブ・エブ」(「EEAAO」とも略すらしい)という作品が7部門も受賞した直後なので、あれが高評価されるのなら「ベネデッタ」はもっと上だろ、と思うだけです。

結局僕は、イエスに対して“セニョール”と呼びかけるだけで口元が緩む不埒な人間ですから、神の存在や神の声などというものとは無縁です。ということで、無神論の僕が書いたこの日記に対し、神学の見地から非難することはおやめください。そんなことしたらマリア様の意図を汲んだ野鳥が、その人の頭に糞を落としますよ。
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