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2023年02月14日22:46

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ポタリストの記録・【葵の御紋が刻印されたお寺・その2】

■長楽寺と豪族・川口氏■

長福寺は丘陵地帯の麓に位置し、周囲を山林に包まれるように鎮座していた。

矢張り山間のお寺には青梅、あきる野もそうだが、真言宗が多い。山岳信仰と密教は結びつきが強いからだろう。

長楽寺も例外なく真言宗だった。

高台に本堂があり、本堂はかなり立派である。

階段を上がる。噂通り「葵の御紋」は建物に刻まれているのだろうか。

屋根瓦には葵の御紋が確かに刻まれていたのである。

これが都心のお寺では別段珍しくもないし、驚きもない。言っては難だが、八王子にこのようなお寺が存在している事は驚きだった。という事は徳川家から知行の下賜、庇護があったことを伺わせる。但し、自分の見落としであったら申し訳ないが、残念ながら東京都の教育委員会が建てた案内板にはこちらの名刹と徳川家との関係について説明はない。

こちらのお寺にはまだトピックがある。それは真言宗にも拘わらず、本尊が不動明王ではなく、薬師如来坐像なのだ。本日はアポを取っていないが、予約をすれば拝観も可能だという。近年は拝観をする方が増えているらしい。矢張りウイズ・コロナの世相をよく反映しているといえるのではないだろうか。薬師如来は医学、医療、薬を司る。

次回はアポを取って拝観させて頂こう。

こちらの本尊の薬師如来だが、この地域を治めていた豪族の川口氏が寄進したらしい。川口氏は川口川沿い一帯を統治していた、鎌倉時代から(後)北条氏まで、500年も続く豪族である。鎌倉時代は北条氏に、室町時代は関東管領の上杉氏に、そして戦国時代は(後)北条氏に従って来た。

ある意味、「勝ち馬」に乗ることに長けていたと言えるかもしれない。

だがこのことは別に卑怯でも何でもない。

勝ち馬に乗ったという行為自体は結果であって、その場はどうなのかは分からない。賭けに等しい場合もある。賭けというと博打だが、博打と違うのは、博打は単にお金を失うだけだが、しくじれば一族郎党皆殺しに遭う場合だってあるのだ。

川口氏は鎌倉時代からの豪族で、北条氏に従った事でこの地域を統治出来た。北条氏といえば鎌倉幕府。その鎌倉幕府を開いた源頼朝も舅の北条時政の協力なしには平家打倒は成り立たなかった。というのも、平清盛は全国にいる主だった源氏を殺して首を差し出すか、生け捕って差し出すように指令を出していたからだ。当然この指令は時政の許にも届いた。舅なのだから、助けるのは当たり前だと考えるのは我々現代人の感覚だ。当時は隙あらば親殺し、子殺しはざらにあった。意外かもしれないが、北条氏は平氏なのである。ここで時政には清盛の命令通り、頼朝を殺して首を届けるか、生け捕って差し出すという選択肢以外に、頼朝を逃がすという選択肢もあった。

しかしどちらも簡単な事だったにも拘わらず、しなかった。

それどころか時政は最もハイリスク・ハイリターンの選択を採った。

その選択は平家打倒のため決起した頼朝を一族を挙げて応援するというものだ。時政には確かな計算があったに違いない。ここで頼朝の首を差し出したところで、中央政界に地方の平氏が進出し、権力を得られるチャンスはこの時代は殆どないから、領地を一か国増やしてくれる程度だろう。そんなものは欲しくもない。

かといって逃がせば、発覚した際に自分も同罪となり、滅ぼされるだろう。

ならば頼朝に賭けてみようではないかという訳だ。

「鎌倉殿の十三人」ではこういった場面を活写して欲しかったところだ。そうすれば、流石NHK。勉強になる。視聴率の為ならば、いかなるくだらない番組でも平気の平左で拵える、他の民放とは矢張り違うと見直しただろう。

まあ、三谷幸喜氏では到底無理か。

最近の大河ドラマはエンタメ化している。内容が分かりやすい事と、濃い事は両立出来ると思うのだが、どうも制作者はトレードオフと考えているらしい。だから時代考証などそっちのけでCGは使いたい放題、現実には絶対にあり得ない演出ばかりが目に付く。

リアルに捉えたい人ほど大河ドラマ離れが著しいのではないか。

時政が一族を挙げ、頼朝を全面的にバックアップした結果は歴史の通りだ。

戦国武将の前田利家も「勝ち馬」に乗った代表かもしれない。賤ケ岳の戦いの際、友情を取るか(盟友の羽柴秀吉に従うか)、義理を立てるか(上司の柴田勝家に従うか)で逡巡した。結局積極的に参戦せず、離脱するという選択肢を採る。この利家の帰趨は大きく、秀吉軍優勢に働いたのである。利家は勝家の麾下の頃は能登の七尾城を根拠としていたが、賤ケ岳の戦いの後は金沢に移る。これが三碧木星生まれの利家にとって、南西の九紫火星はとてつもない大吉方位だったのである。南西=不動産、九紫=きらびやかな文化。まさに金沢の街を象徴している。

秀吉は利家の北陸3カ国(加賀・越中・能登)の領有を認め、晩年は五大老の席を設けて報いた。

川口氏は(後)北条氏滅亡後、徳川の旗本になったという話は聞かない。伊豆にいる親類を頼って落ち延びたと聞いている。500年続いた名家も最後はこのような状況で、徳川家康という勝ち馬に乗ることは出来なかった。

厳しい時代であることを考えさせられる。

だがご子孫は健在だという。

ではなぜ建物に葵の御紋が刻まれているのか。これについては薬師如来坐像を拝観した際に説明があるかもしれない。

本日は家事もあった事で、ポタリングの往路はここまでである。

復路は以前も参拝した事がある、長福寺、法蓮寺、安養寺を参拝した。長福寺と安養寺は梅が咲きだしていた。川口川は工事中でところどころ遊歩道も途切れている。新緑の季節に終わっていたら川口川は自然豊かな表情を見せてくれそうだ。

来た道を引き返す形で帰途に就いた。

最後まで御覧頂きまして、ありがとうございました。

走行距離は約35km、平均時速は20.1kmという結果でした。

(了)

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