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2022年09月11日02:04

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ポタリストの記録・【武蔵野の寺院参詣巡り(東村山・新座往還)・その4】

■平林寺概要【岩槻から新座への移転は紆余曲折がある】■

殊更声高にアップしていないものの、平林寺は何度か自転車で訪れ、不思議な体験もした。駐輪場を捜して露店に来てしまい、露店のきさくなおばちゃんに

「あれっ。おたく一人かい? さっきいた、髪の長いサイクリングのカッコウをした女の人は?」

と言われた覚えがある。しかしこのおばちゃんはそんなことはよくある話だという態度で、案内してくれた。

しかし初めての方もいらっしゃるかもしれない。そこで些か歴史の教科書的な説明にはなってしまうが、概要を纏めさせて頂きたい。

金鳳山平林寺(きんぽうざんへいりんじ)は、永和元年(1375)、凡そ650年ほど前の南北朝時代、武蔵国(むさしのくに)埼玉郡、現在のさいたま市岩槻区に創建された。開基は、禅に深く帰依していた大田備州守春桂蘊沢居士(おおたびっちゅうのかみしゅんけいうんたくこじ)、開山には鎌倉建長寺住持で、書や偈頌(げじゅ)に優れていた当代の高僧・石室善玖(せきしつぜんきゅう)禅師が迎えられた。

「金鳳山」と名付けられた山号は、かつて石室禅師が元(げん)に渡って修行した、金陵(きんりょう)の鳳台山保寧寺(ほうたいさんほねいじ)に由来している。また寺号は、寺の伽藍が平坦な林野に見え隠れする様子から「平林寺」とされた。

なるほど、原生林のなかにお寺はあるように見えるが、ただ岩槻から新座に移るまでは時がある。この点はいかがだろうか。

戦国時代に下り、関東一円は豊臣秀吉による小田原征伐の戦禍を受ける。岩槻にあった平林寺も多くの伽藍を失い、塔頭(たっちゅう)のひとつ聯芳軒(れんぽうけん)が辛うじて焼け残る有様だったという。

そこへ関東に領地替え(注・実質は「左遷」)となった徳川家康が鷹狩に訪れた。途中、家康は休息のために、聯芳軒に立ち寄った。軒主から平林寺の由緒を聞いた家康は平林寺の再興を約束、復興資金と土地を寄進した。更に家康は、かつて駿河臨済寺にて共に学び、臨済禅を代表する傑僧となっていた鉄山宗鈍(てつざんそうどん)禅師を、平林寺住持として招聘(しょうへい)したのである。

天正20年(1592)、平林寺の中興はここに果たされ、平林寺は建長寺派、大徳寺派の系譜を経て、妙心寺派としての新たな歴史を刻んでいく。

家康の関東入部に際し、家臣として三河(みかわ・現在の愛知県東部)から共に上京した大河内秀綱(おおこうちひでつな)は平林寺の大檀那(おおだんな)となって山門や仏殿等の伽藍の再建を行った。秀綱の孫で、松平家の養子となった松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)も徳川家に仕え、第3代将軍家光、第4代将軍家綱のもとで幕府老中を務める。

また、信綱は大河内松平家を興し、秀綱はじめ、その祖母寿参尼(じゅさんに)、実父大河内久綱、養父松平正綱らを平林寺に篤く弔った。一族は代々に渡って大河内松平家廟所で供養され、今日に至るまで、平林寺が同家の菩提寺となっていく。

岩槻にあった平林寺は、寛文3年(1663)信綱の遺命によって野火止(のびとめ)に移転。この地には、信綱が開削した玉川上水から分水された野火止用水が流れ、平林寺にも平林寺堀が引かれる。

水の利を得た地域一帯は、新田開発が進むと共に、人々のくらしを支える雑木林が形成され、江戸近郊の農業都市として発展を遂げていく。

以上が教科書的な説明である。

江戸時代初期、島原の乱の総司令官だった松平信綱の遺命で新座に移し、上皇陛下が皇太子の時と天皇の在位期間中、二度も訪れた名刹、それぐらい抑えて頂ければと思う。

■令和4年の平林寺参詣紀■

以前訪れたのが2020年の晩秋で、この時はコロナ禍下だというのに、外国人の多さが気になった。しかしあの当時と比較し、何と人の少ないことだろう。

入山の際、係のお坊さまは良かったらパンフレットもどうぞ、とアピールまでしていた。サイクリストのいでたちなんて、しない人から見たら、おサルさんのように、パットでポコんとお尻が出た状態は変態ファッションでしかないが、意外なほど気遣いを感じる応対がとても嬉しい。

すれ違ったのは1人しかいない。

あの時の喧騒、日本政府は外国人の入国制限をしているのではなかったのかと疑念を抱くようになったのもこちらのお寺の観光客を見てからだ。あの喧しさはどこへやら・・・である。まあ行動制限が無ければ、多くの人は大枚はたいて旅行してしまうだろうから、これがもともとなのかもしれない。

静かなことは良いことだ。

そもそも寺院は我々のような修行者でない者からすれば、常日頃目の前の現実と格闘する余り、自分しか見えない視野狭窄に陥りがちなのを、自分以外の神仏という存在を認めることで、冷静さやメタ認知を取り戻す場所である。ならば人がいなければいないほど良いにこしたことはない。

緑のカーテンに覆われた山門は美しい。自転車で訪れた美しい山門はあきる野市にある、広徳寺ぐらいだろう。ここも深緑、銀杏、紅葉の時期はとても美しい。

山門を潜ると、昨年とは打って変わって少ない参拝客のためか、暗い本殿からは

「おぬしが訪れるのを待ちわびたぞ。今はどうしておる? 何をして欲しい?」といわんばかりの反応があった。

新コロのせいでお賽銭を入れることが出来ないので、一礼一拍。

訪れることが出来た事へのお礼、悪い気をハズして欲しいということ、最近整形外科でマッサージを週一回しかやってくれないこともあり、老母がへたばっている。彼女の快癒を祈願した。500円の拝観料では足りないのであれば、もう十分に生きた。私の寿命を削っても構わない、どうせ59歳までしか生きられないから、と告げた。

「ふむふむ。そこまで己の寿命について把握しているのであれば、最早何も言うまい・・・よかろう。寿命は削らずとも叶えてつかわす。されどそなたも今、ここに集中し、幸せを感じつつも身体を労うて過ごすが良い。」

という声が帰ってきた。

そんな手ごたえに小さな幸せを見出しつつ、時間の許す限り進んだ。

★生年月日、生まれた場所、時間をご教示頂ければ、死期を観る事は出来ます。その気になれば、1年程度の誤差まで出せますが、10年スパンで宜しければお出しします。お気軽に。★

平林寺の敷地面積は大変なものだ。
立ち入り禁止ではない箇所の最深部まで以前行ったが、今回は折角入山受付で頂いたパンフレットにある、松平信綱墓所と島原の乱の供養塔をゴールとしたい。

雑木林は相応に蚊がいたが、もともとアトピー性皮膚炎が長い事のあり、蚊は私の腕や手に停まってもまったく刺さずに去っていく。どうもステロイドが彼らは苦手のようだ。

途中、上皇陛下のお言葉、という看板があった。

矢張り上皇陛下もこのようなところに風光明媚な寺院が存在することは奇跡だと感じていらっしゃったようだ。御認識の通りだと思う。

遊歩道を抜けると、墓地や供養塔があり、島原の乱の一揆軍の供養塔のようだ。

供養塔が建てられたのは1861年だという。乱の平定から200年も経ってからである。

徳川幕府は歴代の「幕府」の中でも最もリアリストだと思っているが、その徳川幕府ですら、朱子学というイデオロギーの軛から脱するのに、斯くも長い期間が掛かったことを示唆している。朱子学が水戸藩を中心として、天皇家絶対という思想を高め、倒幕のエネルギーを蓄積することになってしまったのは皮肉な話である。

お寺ゆえ、代々の檀家のお墓も勿論ある。供養塔近くにそうしたお墓も多数ある。なだからな坂を上がると、松平信綱墓所に着く。以前いた時はマナーの悪い人たちが大勢いて、辟易したものだが、本日は私一人。

ただだいぶ信綱公の墓所も傷みが激しい事が窺え、塀など下手に触らない方が良いだろう。墓所を囲う塀から拝礼するだけだ。

つまらなそうな観光客が喧しかったので、当時は感じなかったが、矢張り墓所だ。時として小さな川ですら、三途の川に準えることもある。先ほどの野火止用水から先の松平信綱墓所は異空間、そのような印象だ。

汗っかきの私ですら、ひんやりする。真昼間、残暑の気温31℃ぐらいはあるというのにだ。

何枚か信綱墓所から奥にスマホカメラを向け、撮ってもそれは強く感じる。

人感知センサーがちらほらと丸印を示している。禍々しい雰囲気はまったくない。チャラい自転車のいでたちのオッサン(?)が来たので、びっくりしているだけだと思いたい。

少なくともこちらは真摯に郷土史を学びたいと思っている。

本来お寺というところは、生者と死者が身近に会う場所。そのような雰囲気があったしても、全く不思議ではないと思い直すことにした。

時間も圧して来たので、このあたりで退山することにした。次回は紅葉の時に是非参拝したい。

次回は最後になりましたが、初秋の金山遊水池をみたいと思います。

最後まで御覧頂きまして、ありがとうございました。

(続く)

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