只管喜楽。
ただただお気楽な神社仏閣を毎週日曜日参拝し続けて8ヶ月、すでに廻った神社仏閣は六百は超えている。
それだけ廻ったからと言って、幸運がやって来たとか、勝ち組になった、とかは感じられない。
日常には相変わらず嫌な事も起こる。
断じて言える、神社仏閣を廻ったからと言っていい事が増える訳ではない。
先日も、行列のできるお店へ遅れてギリギリ待ち組になった。
そこへ行く前に駐車場を出る時、前の車がもたもたしていて、開店時間に遅れてしまったのだ。
予定では開店前に着けるはずだったのに。
もし、あの車より少し早く駐車場のゲートへたどり着いていれば。
遅れた結果、お店は満席、30分も待つ羽目になった。
その駐車場は有名な神社の駐車場で、参拝した直後だったのに。
でも、
遅れて待っていると、お店の人が蚊取り線香を座っている席まで持って来てくれた。
それで一気に気持ちが良くなった。
もし、遅れていなかったら、そんな極上のサービスを只では受けられなかっただろう。
朝の早くの神社やお寺はシ〜ンとしている。
それだけで少しの音も敏感に感じることができる。
動くものもないのでかすかな動きも目にとまる。
虫が鳴いている、猫が塀の上で一回尻尾を振った。
いつもは気が付かない事に自然と気づく。
物事が良いことなのか、悪いことなのか、どうやって判断しているのだろうか。
考える範囲は数時間後?それとも数年後?
遅れた事で良いことに出会う、と言う感覚は2つの原因があるように思う。
1つは、ひとつひとつの事を繋がりで考えられるようになったこと。
つまり、遅れたことと、店員さんのサービスとの繋がりをみつけられたから、遅れた事が良いことになった。
2つ目は、かすかな変化や起こることに敏感になれたこと。
蚊取り線香を置いてくれたこと自体を見逃していたり、気にもとめなかったら、遅れた事が良くなることにはならなかった。
運がいいとか悪いとか、そうゆうことって確かにあると、あなたを見ててそう思う♪
そんな流行歌があったけど、それはとても表面的なことのように思える。
物事は全て繋がっていて、良因楽果悪因苦果、と思えるのは、実に表面的な事なのだ。
本当は塞翁が馬のように、悪因が楽果になることもある。
と言うより、最終的には悪因も良因も楽果にしかならないと思える。
ああしていれば良かった、と言っても、それが本当に思い通りに良い結果になったかどうか、現実は1つの結果しか経験出来ないのだから、比べようがない。
それよりも、様々な因縁から出来ている現実を、その因縁を1つでも多く理解出来るようにした方がいいと思う。
つまり自分の周りで起こっていることに敏感になることが出来れば、結果を常に色々な角度から見れることになる。
早朝の神社仏閣巡りが楽しいのは、
1つ、神社や仏閣の由緒や歴史を調べる事で、縁(繋がり)がわかってくること。
2つ、周りの物事に敏感になれること。
3つ、それらが合わさり、現実の今を幸せだと感じれること。
と書いた後に、三木清さんの「語られざる哲学」を読んでみて下さい。
三木さんの言う「貝の魅力」が無くなってしまった理由の原因は、今書いたことと関係あると思うのですが。
三木清「語られざる哲学」より
…私はかつてニュートンの言葉から思い出して人生を砂浜にあって貝を拾うことに譬えた。
凡ての人は銘々に与えられた小さい籠を持ちながら一生懸命に貝を拾ってその中へ投げ込んでいる。
その中のある者は無意識的に拾い上げ、ある者は意識的に選びつつ拾い上げる。
ある者は習慣的に無気力にはたらき、ある者は活快に活溌にはたらく。
ある者は歌いながらある者は泣きながら、ある者は戯れるようにある者は真面目に集めている。
彼らが群れつつはたらき、ある者は活快に活溌にはたらく。
砂浜の彼方に限りもなく拡って大きな音を響かせている暗い海には、彼らのある者は気づいているようであり、ある者は全く無頓著であるらしい。
けれど彼らの持っている籠が次第に満ちて来るのを感じたとき、もしくは籠の重みが意識されずにはおられないほどに達したとき、もしくは何かの機会が彼らを思い立たせずにはおかなかったとき、彼らは自分の籠の中を顧みて集めた貝の一々を気遣わしげに調べ始める。
調べて行くに従って彼らは、彼らがかつて美しいものと思って拾い上げたものが醜いものであり、輝いて感ぜられたものが光沢のないものであり、もしくは貝と思ったものがただの石であることを発見して、一つとして取るに足るもののないのに絶望する。
しかしもうそのときには彼らの傍に横たわり拡っていた海が、破壊的な大波をもって襲い寄せて彼らをひとたまりもなく深い闇の中に浚って行くときは来ているのである。
ただ永遠なるものと一時的なるものとを確に区別する秀れた魂を持っている人のみは、一瞬の時をもってしても永遠の光輝ある貝を見出して拾い上げることができて、彼自ら永遠の世界にまで高められることができるのである。
私たちはこの広い砂浜を社会と呼び、小さい籠を寿命と呼び、大きな海を運命と呼び、強い波を死と呼び慣わしている。
かようにして私たちには多くの経験よりも深い体験がさらにいっそう価値あるものであることは明らかである。
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