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2021年05月27日10:01

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備えあれば憂いなし

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本日雨降り、大雨の降っている地域はかなり心配だ。

京都へ神社仏閣巡りへ行くと必ず1日は雨が降る。

雨が降ることは神様に歓迎されていること、とその筋の方々は言われる。

しかし、雨具を脱いだり着たり、靴下がびちょびちょになるのは、なんとも不愉快なことだし、限られた時間でまわるには、それだけで時間が余計にかかってしまう。

ふと、こんな逸話を思い出す。

丿貫(へちかん)は利休も一目置く茶道を極めた無冠の名手。

ある時利休は丿貫の茶会に招かれる。

草庵に着くと、門の前にいかにもという感じて「落とし穴」がある。

はて?何故こんなところにわかりやすく落とし穴?

普通なら避けて通るところ、そこは利休、

何かの趣向では?

と思い、あえて落とし穴に落ちる。

すると家の中から「これはこれは、さっさっ、一風呂浴びて服を着替えて下さい」と丿貫。

利休は、いい気分で風呂に浸かり、さっぱりしたところで一服を頂いた。

落とし穴は、さっぱりと一風呂後に、一服出すという丿貫ならではの趣向だった。

もちろん、落とし穴など作らずに、普通にお風呂を勧める事も出来たのだが、このやり取りがあることで、利休の丿貫への信頼や親交の深さ、利休と丿貫の性格などが垣間見られるエピソードとなっている。

雨の後は空気も清浄となり、虹なども見られることがあり、雨に降られても、神様を信頼し、どういう意味なのだろうか、と考えながらの神社仏閣巡りは、さながらコナンばりの楽しい謎解きのようだ。
謎解きがなければ、コナンはそれほど有名な作品にはならなかっただろう。

もっと大きく拡大すれば、何かの困難に出会った時に、どうゆう意味なのか考え、もちろんその場ではわからないとしても、謎を謎として神様を信頼して愚痴をこぼさなければ、必ずや良いことを後から漏れなくついてくると思う。

利休が丿貫を信頼したように、ヨブが神様を疑わなかったように。

桜井識子さんが空海さんに会いにあるお寺さんへ参拝した時、拝殿前で大声で経を唱えているお遍路さんがいた。

あまりに声が大きく、桜井さんは集中できず、空海さんと会話出来ない。

「誰もが参拝に来る場所であんなに大声はだめでしょ」とイライラするが、後に空海さんと話した時に、それは私(空海)からみれば、どちらも自己中だ、と言われた。

大声で祈ることも、それはだめでしょと考えるのも、実は神様からしたら同じレベルの考えだ、と言うのだ。

常識的に、と人が考えることも、結局自分が不愉快だからに過ぎない。

そうゆう個人の不愉快さが、ある程度まとまったに過ぎないのだ。

正しい事とは別物だ。

そんな時は、相手の立場にたつ事で、「あんなに大声出すなんて、本当に感謝しているのだなぁ」とガラッと思考を変えて考えることができる。
むしろどちらかと言えばこちらが真実に近い気がする。

すると、すーと気持ちが落ち着き、同じように神様が大好きな人なんだなぁと感じて、イライラでなく、むしろ微笑ましく感じる。
(こうゆうことを、今風にいうならばアンガーマネジメントと言うのだろうか)

食欲、性欲、睡眠欲は誰もが持っているが、怒りや不満、愚痴もどんなに温厚な人でも漏れなく持つ感情だ。

その感情が最終的に完全になくなるのか、それとも単に少なくなるだけなのかわからないが、それから遠ざかり、心を安定させ、達観、諦観するにはやはり訓練が必要だ。

なにも辛い修行をしなくもとも、低い心的考え方を変えるのに役立つヒントをもらい、コツコツ毎日訓練することは誰にでも出来ることだ。

だから、大事の前の小事、小さな困難(雨降り)などを通して、普段的に思考を訓練しておけば、大きな困難に出会った時も、その謎解きを楽しんで出来ると思う。

毎週、めんどくさがり屋の自分が、よくも飽きずに神社仏閣巡りをするのは、ちょっとしたハプニングから、その謎解きを楽しんでいるから、続けられているのかもしれない。

人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ

   チャーリー・チャップリン

自分は喜劇は好きだ。
上から見てる神様にとっては、喜劇にしかうつらないのなら、せめてその視点を想像して、悲劇を笑いとばせる、もしくは苦笑いくらいにして、毎日心安らかに過ごしたいものだ。

幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである

       トルストイ

この言葉からアンナ・カレーニナははじまる。
幸福の形がひとつなら、様々な不幸の形にたった1つの幸福の形で対応可能と言うことかもしれない。

演繹から帰納、そして帰納から演繹。
正反合を繰り返し、最終的なアウフヘーベンにたどり着ければ、今度はそれを凡百な個々の事象にも広げられる。

ひとつの幸福と言ってもそれは個人的な真理で、人から教えられるものでなく、自分で感じ、考え、荒野を行く旅人のように、前人未到の頂上を目指すがごとく、孤独と戦いながら、遅々とした歩みを進めなければならないのだろう。

怠らず 行かば千里の末も見ん 牛の歩みの よし遅くとも

         坂 静山
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