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2020年10月30日13:54

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仲良しと愛

心の向きが反対である事に気が付かされる。「仲良し」は感覚や気が合う人たちだけに限られるから、まずは狭くなる。また、それらもエゴの働きであるし、心のメッキみたいなものである。メッキが剥がれた時に、エゴとエゴがぶつかりそうになる。その場合、そのままぶつかり、ケンカになるか、それとも、互いに避けて絶縁になるかのどちらか。僕も仲が良い人ほど、ケンカして絶縁してきたし、他人や、僕の入っていた複数の会もそうだった。まさに「仲良し関係の落とし穴」である。


  これに対し、愛はまず相手の言う事を聞き、こっちも聞いてもらい、ちゃんと気持ちを理解し合い、深く思いやる関係だから、感覚が合わなくても、親友になれるわけである。理解し合う以上、互いのエゴも抑えられ、ケンカや絶縁にはならない。

  以上の二つのどちらが良いか、選択するか、言うまでもなく、愛である。そのような親友を持てるだけでも人は幸せになれる。恋人なり、夫婦にもそのような関係があれば、更に良いかもしれない。


  ところが、日本では、明治期にできた教育勅語から文部省や教育関係では、「仲良く」を強調し、天皇が表舞台から退き、教育勅語が廃止された戦後も、その路線を続けた。「仲よくする事は良い事じゃないか」と。映画監督で、教育評論家でもある羽仁進氏が早くからそれに警鐘を鳴らしてきたが、他はほとんど注目しなかった。70年代に一時教育関係に首を出した新左翼系会でさえも「仲良し主義」だったし。本当に明治の教育勅語で、「仲良し洗脳」が日本にできてしまったと考えたくなるほどだ。

  とは言え、理性が未発達で子供たちは特に感覚的に交友する傾向にあるから、仲良くできる子とは仲良くなり、感覚が合わない子にはいじめたりもする。何かの理由で皆と感覚的に掛け離れている子にはクラスでいじめる。また、仲が良い子たちも、感覚のメッキが剥がれたら、ケンカやイジメ。つまり、「仲よくしましょう」という教えではダメである。聖書ではないが、「愛しましょう」、「理解して、互いの良い所は尊敬しましょう」と先生が教えなければ、何も始まらないわけである。

  ITはますます発達し、外国人との付き合いも増える今後は更に日本も愛が必要になると。愛のない社会や国は滅びると思われる。国が滅びたら、どうなるだろうか。...。


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