「三日月のことを下弦の月って言うんでしょ?」
早朝、駅まで車で送ってくれる女房殿が急に言う。
なんだ、いつからお前は、与謝野晶子になったんだ(月の夜の蓮のおばしま君うつくし…明子の月の歌から)
実は自分もよく知らない。
知らないことは調べる。
すると、下弦の月とは右半分が見えない半月のことだった。
旧暦では、七月から九月を秋と言う。
七月が初秋、八月が中秋、九月が晩秋。
月々に月見る月は多けれど
月見る月はこの月の月
この月は中秋の名月の事で、八月十五日の月のことだ。
「月が綺麗だな、そろそろ中秋の名月だな」
と思う。
「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したのは、漱石だったっけ。
満月はその形から、鏡にたとえられる。
澄み切った少しの曇りもない満月は、月の真澄鏡(ますかがみ)
これは自分の姿を映す鏡ではなく、心を映す鏡だそうです。
ところで、神社などの御神体に鏡が飾ってあるのをよく目にしますが、何故だか知っていますか?
そう、鏡は自分の姿を映すだけではなく、心も映すと考えられた、まさに真澄鏡なのです。
そしてその御神体(鏡)と向き合い、我(が)を捨てたとき神となると言われています。
かがみ−が=かみ です(駄洒落かよ)
むかし、ドリフターズのコントで、志村けん神がカトちゃん神に向かって「あたな神様?」と聞くと「いいや、わしゃ神様だよ」と耳の遠くなった神様が応える。
モンスターエンジンの神々の遊びの元祖みたな感じ。
懐かしいなぁ。
我を取れば神になると言われているが、自分はむしろ、神は我を含んでいる、包んでいると思えるのです。
神様のように全てに完璧にはなれないれけど、なるべく我を小さくなるよう努力して神様に近づく。
もしくは、鏡を見るとき、我を包んで下さっている神様に感謝する。
仏教では我々はみな本来仏なのですから。
鎌倉の円覚寺へ早朝参禅していた時、山門から一言もしゃべらないことが作法で、ゆるりゆるりとお堂まで歩く。
お堂に着くと、お堂の横に1列にその時を待つ人々がいる。
そして、これから座禅をするお堂の仏像に手を合わせる前に、その列の最後尾の人に、手を合わせる。
それは、みなそこに並んでいる人こそが、仏(生き仏)なのだから。
はじめにそう教わった。
ちなみに、江戸時代のお風呂の入口を「ザクロ口」と言ったそうだ。
これも鏡と関係がある。
風呂(蒸風呂)の入口を屈(かが)んで入るから「屈み入(い)る」を「鏡鋳る」と読んだ駄洒落で、鏡鋳るとは鏡を磨くことで、その時にザクロの実を使ったから、と言われている。(こうゆう江戸人に親近感を感じるんだなぁ)
3時に起きて、お弁当を作り、駅まで送ってくれる女房殿は、やはり菩薩様なのだろうか。
「下弦の月は三日月だったでしょ?」
と聞かれたら
「そうだなぁ、月が綺麗だな」
と応えよう。
ログインしてコメントを確認・投稿する