「旅の恥はかきすて」なんて昔の人は言う。
旅先では知らない人ばかりだから何をしても構わない、と言う意味で使われているが、実は違う。
この言葉は、旅先では、自分ではちゃんとやっているつもりでも、習慣の違いなどで恥をかくことがよくある。
そんな時、現地の人が、旅をしている人に「旅での恥は気にしなくていいのですよ。私も旅にでれば恥をかきます。だから旅の恥はかき捨てって言うでしょ」という形で使うのだそうだ。
だから、恥をかいた人を慰める時に使うもので、旅先で何をしてもいいと言うのではない。
よくお店でお勘定の時「おあいそう」などとツウぶって言っている人がいるが、あれはお店側が「お愛想つかしですが、お勘定をお願いします」と使うのは正解。
自分から、愛想をつかすなんて、まるでそこのお店が不味い料理を出して、もう二度と来ない、と言っているようなものだ。
コロナの時だからこそ、どのような気持ちで旅行するかが大切だ。
つい先月、帰省時期に、ご近所の目があるから、帰って来ないでと言われた人が多かったと聞いた。
帰省警察なんて怖い言葉も出来た。
地元民ですら帰って来てほしくないのだから、旅行する他人なら何をか言わんやだ。
では止めればいいじゃん、確かにそうかもしれない。
しかし、一方でどんどん老舗旅館が閉店に追いやられている。
これは地元民だけではどうしょうもないことだ。
借景と言う言葉のように、実は旅先の風景のなかには、自然のみならずその「街並み」も入っている。
旅先が、シャッター通りでは写真を撮る気にもにならない。
コロナ禍の旅行は、金は落とすが菌は落とさない。
さらに、旅先の地元住民に心理的な恐怖を抱かせない。
手洗い、うがいにマスク、特にマスクは飛沫防止と心理的な要素も大きい。
クラスターが発生した夜の街は、マスクを外して大声でしゃべる場所だ。
3蜜な満員電車でクラスターが発生しないのは、マスクをしてしゃべらない空間だからだ。
コロナ禍の旅行は、地元住民との接触を極力さけて、マスクを外さなければならない、地元の美味しい料理を出すお店で食事を取らずに、自然の中や宿で食事を済ませる。
旅の醍醐味の半分はできなくなってしまうが、この際仕方がない。
何もせずに傍観することは、時にその犯罪に加担したことになる。
幇助罪。
「強者どもが夢の跡」
「川の流れは絶えずして、もとの水にあらず」
旅先で感じる諸行無常。
所詮、人の儚い夢の浮世ならば、今の時代に積極的に関わっていきたい。
そして今日も、トラックの走る音を遠くに聞ききながら、暗い線路の先を見て、始発電車の窓を少し広めに開けます。
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