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2020年05月27日20:59

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身を知る雨は ふりぞまされる

このドラマはフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

何故こんなわかりきったことをわざわざテロップするのと疑問に思ったことはないだろうか?
それはこんな事件があったから、

神戸市に在住していた「ドルゲ」姓のドイツ人音楽講師が、「『バロム・1』 に出てくるドルゲがもとで息子がいじめられるかも知れない」として放送局に抗議、名前使用差し止めの仮処分申請をする事件が起きた。

それ以降、(言い訳として)テロップをつけるようになったらしい。

しかし、超人バロム1を見たことのある人ならわかると思うが、どう考えても現実ではない。

本日にリアルなのは「野生の王国」だけなのに、誰が西部警察のような、町中でマシンガンを撃ちまくる警察を本当だと思うだろう。

本当に何も手を加えない事実なんて、自分が体験すること以外はない。

でも、フィクションだとわかった上で、みんな、そのドラマを楽しみ、泣き、笑い、怒り、悲しんだ。

昔のいじめは、嘘だとわかった上で、それをネタにいじめた、と言うことだ。

だから当然いじめる方も罪悪感はある。

○○○ハウスは、見ず知らずの男女6人が共同生活する様子をただただ記録したものです。用意したのはステキなお家とステキな車だけです。台本は一切ございません。

これが今のテロップ。

片や「これは、嘘ですよ」と言い、片や「これは、リアルですよ」と言う、世の中確実に正反対に動いている。

今も昔も、どちらもフィクションなのに。

○○○ハウスに出演した女性プロレスラーが自殺した。

SNSの誹謗中傷がパナすぎて、政府、警察も動きだした(西武警察なら良かったのに)

現代はとにかくリアリティが一番いいと考えているようだが、実はそれは作る側のイメージの貧困や想像力の欠如から来ているのではないか、と思う。

小説や歌で名作と言われているものは、その修辞か魅力的なのだ。

好きとか愛してるとか、ダイレクトに伝えるのは、単にやりたいです、と言っていることと同じこと(違うかな)

この修辞の技巧こそ、その作者の持ち味であり、一番難しい部分であり、才能があふれでる、もっとも理性的な所なのだ。

才能のない人は、その部分をリアリティ、または本能的な部分で埋めているような気がする。

現実をえがくのなら、なんら才能などいらない、多少の技術があれば充分だから。

なので、リアリティを追及しました、と見ると、この人才能ないのを自分から言っている、と見えてしまう。

でも、どんなにリアルに見えても、見せてる側がいるというその時点で、作為的であり、フィクションなのだ。

それを理解できない見る側にも問題はある。

例えば、◯◯◯ハウスの最後に、NGカット集をつけたらどうだったのか?

喧嘩している二人が、楽屋で仲良く談笑している姿をみれば、さすがにテレビの中で憎らしくわめいている人が、実は演技だったとわかるのに。

それをしなかったがために、この娘の性格はまじ嫌い、となってしまう。

つまり、今のいじめは、いじめてる意識はなく、そんなひどいことをする人なら、非難して当たり前、と思っているふしがある。

悪者が市民に暴力を振るうのは悪いが、正義のヒーローが悪党にパンチやキック、果ては爆破してもいいのだ。

もしそうなら、限りなく現実のように、視聴者を騙したテレビ制作側に問題がある。

SNSで誹謗中傷する、テレビに簡単にだまされた人も悪いが、才能のない作家と視聴率ばかり気にするテレビ局が作り出した虚像に、未来のある若者が殺されたのだ。

同じくらいの子供をもつ親として、追い込まれて自殺してしまった娘さんを持つ親御さんは、なんとも無念でやるせない気持ちだろうと思う。

これを書いているときに、◯◯◯ハウス打ちきりのニュースが飛び込んできた。

今後はまた昔のように、これはフィクションです、とテロップをだし、NGカット集もつけて、虚構だとはっきりわかる形で、みんなに作品を提供し、その作品の才能でみんなを楽しませて欲しい。


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