私はウソつきです、そう言われたらあなたはどうしますか?
「そう、ウソつきなんだ」と考えたひと、本人がウソつきだと言っていることを真に受けるのですか?
本人が自ら自分はウソつきです、と言っているのに?
「じゃあ、ウソつきの反対、正直者か?」うーん、それでは本人がウソつきと言っているのに、いや、お前は正直者だ、と全く反対の評価をしたことになりませんか?
これはギリシャ時代からある、エピメデスのバラドックスです(クレタ人はウソつきだ、とクレタ人のエピメデスが言った、が原文)
論理学では「P=非P」と書くらしい。
日本では今、自粛と言う言葉がこんな状態になってます。
自粛と言う言葉は、自分から進んで、行いや態度を改めて、つつしむこと、とあります。
営業自粛、ならば自ら進んで慎むことなだってのに、最近はなんだか意味が違ってきていませんか。
まるで今流行りの、検察官法を国家公務員法にすり替えるがごとき、浅ましき解釈で。
どうも日本の自粛は、前提として周囲からの評価に基づいて、と言うことが条件かあるようです。
最近某都知事が「自粛が緩んできている」と発言してましたが、さらに自粛と言う意味がわからなくなり、もういい加減にせえ!と言いたくなります。
周囲がみんな大丈夫じゃないか、と考えたなら、それはそれでいい、再開するからには、それなりに対策はとるでしょう、言われなくても。
では何故そんな誰でもわかるようなことあえて言うのか(言うだけなのか)
子供のころにこう言われたことはなかったですか、「気をつけて、危ないよ」と。
そして、怪我でもしょうものなら「ほら、言ったじゃない」と。
都知事もこれと同じことをいっている「自粛してね、注意して」そしてもしニ波が来れば「ほら、言ったじゃない」となる。
では、もしそのまま収まれば「よく注意を聞いたわね(私が言ったおかげだよ)」と自分の手柄に出来るからなのです。
同じ理屈で、政府も「自粛を続けてください」と繰り返し言うだけは言うのです。
すかまじきものは宮仕え、と昔は言いましたが、今は、あさましきものは宮仕え、なんとも情けないお話です。
お上に期待することは、そんなちまちました言葉遊びではなく、もしニ波が来た時の準備をいまして欲しい、と言うことです。
某府知事も政府への要望として、同じように今後の備えを訴えてました。
ほら言ったことでしょ、と、ニ波が来た時の備えを訴える、のとどちらが安心して日常に戻れますか?
営業自粛解除の条件もわからず(緊急事態宣言解除ではなく)、確かかどうかもわからない少ないサンプルデータすら間違った数字となれば、これはほぼ全くどうした判断したらいいのかわからない、お手上げ状態です。
それなのに、自粛が緩んでるとは、開いた口がふさがらない。
検体数を増やし、データを正確に、そして出口の数値をわかりやすく、それを出してくれたら、後は言われなくてもみんな自分で考え対策します。
ほら、言ったとおりでしょ、ではなく、医療は万全、データも正確、かつ検体数も多い、休業補償もしますので、営業する、しないは独自の判断で自粛、再開して下さい、と早く言って欲しい。
私が収束させた、と言いたいのなら、責任をみんなに押し付けるのでなく、自分が背負って行動して欲しいですね。
意識を引き締めて、と言うのなら、他人事のようにしか聞こえないような言葉でなく、心にビンビンくる話し方をして欲しいですね。
昨日の東京の感染者 10人
本日の東京の感染者 30人
※収束
終息、集束、収束、このうちニュースでも、終息と収束二つのテロップを見かけます。
終息とは「物事が終わって、やむこと。」を言います。
例えば新薬に加え予防接種も開発され、新型コロナウイルスの新規発症がなくなったという場合に使います。
一方収束は「分裂・混乱していたものが、まとまって収まりがつくこと。また、収まりをつけること。」を言います。
例えば新薬が開発され、新型コロナウイルスによる混乱状態が落ち着いたという場合に使います。
「収束」はコロナがひとまず落ち着く状態をさし、「終息」は新型コロナウイルスが完全になくなる状態をさします。
時系列順で考えると「収束」してから「終息」することになりますね。
どちらのしゅうそくを使っても間違いではなく、同じ人の発言でも、場面によって使い分けることもあると思います。
最終的な目標はコロナ「終息」ですが、まずは、目先の目標はコロナ「収束」ですね。
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