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2019年08月01日04:19

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映画「新聞記者」の元ネタだという角川新書、望月衣塑子著「新聞記者」を読み終わりました。

僕が予想していた、首相の知人が学校を設立するという事件の内幕に迫るドキュメントではなく、内閣官房長官の記者会見で嫌がられてもひるまず質問を続けている望月記者の、半生を綴った体験談でした。マスコミへのあこがれと、実際とのギャップなどが綴られます。それはそれで、ある新聞記者のドキュメントとして成立しているわけです。

しかし僕は、映画「新聞記者」が、薄っぺらで荒唐無稽と言っていいような政府の陰謀に気づくみたいな物語構成やドラマの浅薄さを、実際の記者の側から“事実はそんなに浅くないぞ”と指摘するだろうと考えていたので、個人的な生活に密着した内容だったので意外な印象を持ちました。ま、映画を先に見たという“間違い”が、そんな印象をもたらしたのです。

すでに別の日記にも書きましたが、望月記者の父親が団塊の世代であること、望月記者自身が僕の息子と同世代であることがポイントでした。もっとも望月記者は、母親からの影響を大きく感じておられるようで、病身にもかかわらず仕事に忙しい望月記者のために、孫の面倒を見ていたお母さんの姿など、感じるところはいろいろあります。

しかし、ジャーナリストとしての役割という部分について、その根本を“なるほど”と納得させてくれるドキュメントではありませんでした。エド・マローという人物に迫った他の書物と違い、この新書は極めて個人的な人生体験談としてまとめている。出版社としては、話題となっている望月記者の直筆なら商売になると踏んだのでしょう。

いちばん残念だったのは、父親たち団塊の世代による活動を“一致団結があった”と感じている部分です。たしかに僕が垣間見た部分だけでも、とことん語り合うということは行っていました。しかし“一致団結”していたかというと、そうではない。つまり僕のような周辺部の“ファン”と呼んでもいい人間たちを、無理に引きずり込むのではなく“その気になったら動け。共感したらその分だけ動け”と、さまざまな立場での参画を可能にしてくれていたと僕は実感しています。あの“運動”のありかたを、きちんと検証してほしいと思う(そして受け継いでほしい)。

若松孝二監督が「連合赤軍 浅間山荘への道程」を作ったときにもらしていましたが、若松プロでアルバイトしていた女子学生が“巻き込まれてリンチ殺人の犠牲となった”そうです。あるいは僕の中学・高校の同級生が、大学で知り合って仲よくなった山崎君を、“奴らは無理に連れ出して殺した”と述べているのですが、僕にはそれが信じられない。

つまり、意志に反して無理やり同行させられたと考えるのは、死んだ人間に主体性がなかったとする考え方であり、それは故人に失礼だと僕は思うのです。もちろん亡くなったことに対しては無念でしょう。でもその現場に自らの意志で参加したことの重要性を、周囲の人間は感じ取ってやるべきだと思う。そうでなければ浮かばれないと思う訳です。

たしかに僕も、あの“運動に加わらないといけないかも”とは感じていました。しかしチキンな僕は、デモに参加することすらしなかった。僕はそんな人生を送って来たけれど、いい人生を送ったと納得しています。そして、オルグはするけれど決して無理は言わなかった先輩や友人たちの態度に感謝しています。

ひるがえって今、たとえば先日の参議院選挙ですが、まっとうな意見を言う新政党が2議席を確保したのはめでたいけれど、投票率が前回以下だったという事実が残念でならない。現行の政治システムに“飽き飽きした”という意思表示なら、もっと本気で意志を形にしろと思う。←もちろん、僕の一票が“勝ち馬投票”になったからと言って、時代を動かすことになんかならないのは分かっています。

つまり、物事はすべて複雑に絡まっているわけで、それを“分かりやすい論理”で知ろうとすることは、しょせん努力の放棄であると僕は感じるのでした。それぞれの人生をどう生きるかはそれこそ“自由”ですが、その自由は自分でつかんでいくほかない、ということです。
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