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2019年01月29日05:36

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ニュースのいいかげんさにすら切り込めなかった、残念な法廷劇。ミック・ジャクソン監督「否定と肯定」(2016)。

ミクシィを始めて10年以上たちますが、ミック・ジャクソン監督作を取り上げたのはこれでやっと2本目です。前回は「メモリー・キーパーの娘」(2008)というテレビ映画でした。そのとき締めくくった言葉が、“ミック・ジャクソンを作家として追いかけるかというと、僕の場合そんなことは100%ありえません。監督の作家性というものは、映画のタッチですぐ分かります”でした。今回「否定と肯定」を見ても、その考えは変わりませんでした。

物語は、ホロコーストを研究する歴史学者デボラ・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)が、“ホロコーストはなかった”と主張する歴史学者デイビッド・アービング(ティモシー・スポール)から名誉棄損で訴えられる、というものです。リップシュタットの弁護団は、リップシュタットを証言席に座らせることなく、また絶滅収容所の体験者を証人として出廷させることなく、アービングの主張を事実ではないと証明する手法を取る、という展開です。

途中、絶滅収容所の体験者が、“事実を証言したい”と申し出て、リップシュタットもその気持ちを汲み取ろうとしますが、弁護団が“辛い思いをするのは証人だけだ”と止めさせます。この手法で明らかなように、裁判に勝つためには真実を語る必要はないわけで、相手の嘘を明らかにするだけで足るわけです。←イギリスの法律では、原告が訴因を立証するのではなく、被告が原告の訴えを間違いだと立証するらしい。

僕は50年ほど前にシドニー・ルメット監督の「十二人の怒れる男」を見て、陪審員たちが事実と感じるかどうかが裁判の決め手なのだと教えられました。つまり科学的に事実を積み上げ、その結果として判決を導くのが裁判ではなく、一般的な印象として結論を導き出すのが裁判だということです。今回の弁護団はそれを見抜いていて、その結論への有効手段を展開する努力にすべてをかけます。

だから原告アービングのように、テレビなどで“主役”を演じることだけが目的の人間には、判決が何であろうと痛くも痒くもないということです。←もちろん金銭的に打撃はあるはずですが、それすらもアービングにとっては必要経費か有名税というところでしょう。裁判で“嘘つき”だと認定されたところで、面白おかしく“報道”するマスゴミにおいては、まだまだ“有効な”タレント(=才能)だったという結末でした。

という内容を、その内容に合わせてじっくり描くならまだしも、さらりと裁判劇にしてしまった(判決寸前に裁判官の考え方が原告寄りだと感じさせるあざとさ、など)その感覚が、まさしく現在のポピュリズムを受け入れた社会そのものの本質だと僕は思います。真実を追求し、歴史的な悲劇の原因を突き詰めて再発を防止するのではなく、ある人間の意見に対して対立する意見が登場すると、二者を並べて戦わせるだけ。長らく物事の決着に使われていた“決闘”となんら変わらないシステムが、裁判なのだということです。

シドニー・ルメット監督がレジナルド・ローズの脚本を得て、陪審員裁判の実際というものに切り込んでから60年、その成果を知らないかのような顔をしてこういう映画を作る“娯楽性”を、僕は唾棄したいと思います。こんな裁判に全力を注いで、ひとつのキャリアを獲得したと誤解する若手弁護士(カレン・ピクトリアス、写真3左)に対しての切り込みでもあればともかく、事実を並べただけで終わってしまうのは“映画作りをなめている”と言うほかないと思う。

という話は、映画は娯楽だという一面の事実だけを受け入れている人には無意味ですが、僕には“娯楽以上の何か”である映画を、そんなに軽く考えないでほしい、と思うのでした。写真2の右はリップシュタットさん本人だそうです。
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