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2019年01月12日13:24

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“日本フォーク界のレジェンド”である三上寛さんと、“後期ベルウッド”について語ってきました。

3年ほど前から、マイミク桜井音楽事務所さんのトークショーを手伝い、昨年はそれが東京都の公開講座に発展して、日本のフォークの歴史を鳥瞰する講座だったこともあり、僕自身の記憶の整理がだいぶできました。そんなことがあった昨年10月、ベルウッド時代の専務であり、その後サンライズ・ミュージック(後のサンライズスタジオ)でも引き続きお世話になった小池康之さんがお亡くなりになりました。

一昨年に、小池さんがガンだと知ったのですが、それを三上寛さんにお話ししたところ“ぜひお見舞いに行きましょう”と言われていたのに、それを実現する間もなく昨年10月8日に小池さんは亡くなりました。三上さんに訃報を伝えると、“しのぶ会をやってお見舞いできなかったリベンジを”ということで、桜井さんのフォーク講座に“後期ベルウッドについて”という一夜を追加していただいたしだいです。

ベルウッドというレーベルは、幸いにして現在も多くの熱心なファンの間で人気を集めています。当時の僕にしてみれば、“マイナーなフォーク”というイメージだったのですが、今となってはそれこそ“レジェンド”が集っていたレーベルです。そして当初からの熱いファンの支持があり、それが口づてに世代を超えて受け継がれ現在に至ったと実感しています。

ところが、そのベルウッド・フォークについて、制作の三浦プロデューサーの面から語られることが多いのですが、会社設立から三浦プロデューサーらがフォノグラムへ移籍したのち、さらにベルウッドレーベルから、三上寛、遠藤賢司、友川かずき、シバなどのアルバムを出し続けた、小池さんを中心とした我々の活動については、あまり触れられていません。←その時代を僕は“後期ベルウッド”と呼びたいと思うわけです。

ということで、三上寛さんと共に“後期ベルウッド”について語りました。キングレコードが、今までの歌謡曲と異質な、小室等や高田渡のレコードを出した1971年、10月のヤマハ主催のポプコンで、上条恒彦+六文銭の「出発の歌」がグランプリとなり、さらに11月の世界歌謡祭でもグランプリとなります。そしてシングル盤が大ヒットしました。

71年の4月からキングレコード大阪支店のセールスマンとして勤務していた僕は、ヒット曲のないレコードセールスの悲惨さが身にしみていたのでした。そんなときに「出発の歌」です。あけて72年1月、上条恒彦はテレビの「木枯らし紋次郎」の主題歌でもヒットを飛ばします。そして4月からベルウッドレーベルがスタートする。

僕は支店内の異動で宣伝部に移籍し(売り上げが作れないのでセールス失格)、洋楽の宣伝をまかされました。しかし邦楽担当の先輩が“フォークはわからん”ということで、ベルウッドの宣伝も担当します。かくて僕は本社のベルウッド担当宣伝、登日ちゃんという知己を得て、73年3月にキングレコードが希望退職を募ったとき、それに応募して新しく発足するベルウッドへと移ったのでした。

その会社作りなどを一手に引き受けて、専務という役職を勤めたのが小池さんでした。アーチストたちが“より自由な制作環境を”と希望し、キングレコードという大看板から抜けようとしたのを、この分社化が2年押しとどめた、と僕は考えています。2年後のキングレコードとの契約更改で、より好条件の契約は望めるはずもなく、ほかにいろいろゴタゴタがあったことから(このあたり、トークショーでは話しましたが、こういう公の場ではオフレコですからね)、僕は小池さんたちと残って、ベルウッドレーベルを継続する道を選びました。

そしてのちに、三上寛さんらを迎えることになったわけです。さらにレコード会社として採算が取れなくなったベルウッドは、キングレコードに100%お願いすることになり、我々はサンライズスタジオを母体に原盤制作へと移行しました。そんな事情で三上寛さんは、サンライズ原盤で東芝EMI発売となったしだいです。

そもそも僕は、三上さんが我々のところへ来たいきさつをきちんと覚えていませんでした。寛さんによると、「ピラニア軍団」のLP企画をビクターが断って、飲み屋で小池さんにその話をしたところ、“うちで出さないか”と誘われたそうな。僕はその場にいなかったのですが、小池さんが毎晩のように飲み歩いていたことが、やはり実を結んでいたのだと改めて思いました。

トークショーでは、東映の大物俳優と加川良さんの接近遭遇とか(これは開場前の話)、寛さんの俳優としての活躍裏話などを聞けて、実に楽しいショーでした。なにより、僕が遠慮して“2曲ほどお願いします”と言っていたのですが、熱心なファンの皆さんのまなざしを読み取った寛さんは、9時半過ぎからさらに30分の熱唱を披露したのでした。

僕自身、寛さんと親しくお話することはレコード会社時代にはなく(たまに小池さんとの飲みにご一緒する程度)、お互いが思い出話をすると、“そうだったのか”と別の観点が現れ、ある事実が見事に浮かび上がりました。それにとても感激したわけです。ものごとを、一面からだけ見ていると全体を見誤るという“真実”を、ここでも体感しました。

高校生のころから株式の取引で貯金し、キングレコードの教養課時代には会社に交際費の請求を一切しなかったと言う小池さん。プライベートではジャズやクラシックが好きで、自動車の運転にも熱心でA級ライセンスを持っていました。まだまだ頑張れる年齢なのに、76歳で逝去とは早すぎます。そして僕は、小池さんの後を継いで何かできるかと考えたら、何一つできないわけで、本当に惜しい人を亡くしたと、残念に思っています。
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