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2018年10月07日16:51

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風水雑談:【風水の見地から見た尖閣の所属問題・その3】

風水雑談:【風水の見地から見た尖閣の所属問題・その3】

■南向きではなく、西向きの琉球王宮■

 歴代中韓王朝の都、それらは南を向いて建てられている。中国の都城は街や京を守るため、四方に城壁をめぐらしてはいるものの、南を向いて政務を行なって来た。

日本は中国の属国でもないが、日本の京都御所も同様だ。

 しかし沖縄、当時の琉球王朝の都城である首里だけはどういう訳か、西を向いているのだ。勿論、軍事的には意味はある。歴代中国王朝が琉球を攻めたことは一度も無いとしても、倭寇の襲来と小競り合いは沿岸ではあったはずだ。南側には八重洲岳、背後には弁岳が迫る。となると倭寇が上陸するとしたら西からしかないからだ。しかしそれだけの理由ならば、日本の平安京が寧ろまだ支配が及んでいない蝦夷地である北東方向を向いていなければならないはずだが、南を向いている。勿論日本の場合は属国で無くても、中国の風水的な概念からこのようにしたに過ぎない。

 その2で登場した明の官吏、陳侃が琉球王宮に辿りついた際、

 「反(かえ)って西向きを正殿とす」

 と述べている。中国から見ても不思議な向きだったようだ。明では南向きだからこのようなことを書きとめたのだろう。
 
 これは何を意味するのだろうか?

 ■琉球の風水は独特■

 琉球の『球陽地理志』という琉球の正史を綴った史料があるが、それにはこう書かれている。例によって、書き下し文を記す。

 「この城(首里城)をもって前に望めば 即ち馬歯山、海中より特起し、これが錦塀を為す」

 「錦塀」とは沖縄で使われる「ヒンプン」という屏風を想起させる。屏風というと、我々本土にいる人間は大名や殿さまの後ろに置かれる装飾品をイメージするが、全く違う。邪気や風を除ける土やコンクリートで作られた塀そのものだ。この史料では「塀」と書かれていて、寧ろこちらの方が我々本土の人間は大変分かりやすい。
 
 王宮という大切な場を「錦」とし、それを悪い気から守る塀ということで、それが西にあることをここでは記している。

 では、その錦塀となる場所はどこなのか?

 時代が下り、清の時代になり、李鼎元が琉球視察に訪れた際の記事、『使琉球記』第六巻で、慶良間諸島について、

 「中山第一の外障とす」

 と述べている。中山とは琉球王朝の王宮のエリアを指していて、外障は王宮のエリアの外の塀を指している。

 矢張り、琉球は独自の風水の概念で統治されていたようである。

 では、果たして琉球、尖閣は中国の柵封体制の下で、単に貢物を送るだけの関係だったのか、それ以上に密接だったのか?

■李鼎元の漢詩が語る尖閣諸島のポジション■

 李鼎元は1800年、琉球を訪れる際、興味深い漢詩を遺している。

 馬詩島歌という大変短い漢詩である。

 三十六島此門戸絶類竿塘石虎五

 (三十六島、これぞ門戸なり。極めてよく似ている。竿塘と石虎五と。)

 36島とは、琉球全体の島の数を指しているが、琉球の最西端は久米島ぐらいまで。当時の清ではそれぐらいあると思われていた。門戸とは入り口を指す。竿塘と石虎五は現在の福建省の沿岸にある島を指している。

 清側の最東端が竿塘と石虎五であると同様に、琉球の最西端が久米島のようだなあ

 というのが口語訳である。

 この2つの島々に挟まれた尖閣諸島はどうなのだろうか?

 まだ結論は出さなくて良い。

■台湾から尖閣に龍脈は伸びているのか■

 古代より中国は風水の概念と地理的な概念はほぼ一致していた。清の時代に入り、台湾は清に併合されたため、ここで風水的にも台湾が帰属しているのだ、と主張する必要が出て来た。ある意味、中国の歴代王朝の歴史はドグマに近い。

 1685年、『台湾府史』で、早速台湾の記述が出て来る。福建の首府・福州から龍脈を伝って台湾海峡を渡り、台湾最北端の鶏籠(現在の基隆、キールン)から台湾府城(当時は台南)のある南に伸びるということである。

 現代の風水師によれば、未だに龍脈は東には伸びていないという。実際、台湾に昔からいる人たちを内省人、中国からやってきた人たちを外省人と現地では呼ぶが、内省人の割合が今でも東部は多いと聞いている。蔡英文総統も選挙戦の際、この地域の支持をどう得るかがポイントになったと語っていた。

 龍脈は基隆に達すると、南下し、台南に達するとされていたことから、決して西に伸びていない。台湾府城も西を向いているように見えるものの、琉球の首里城の王宮のように西は向いていない。矢張り琉球の風水の概念は独特である。

 ということは、尖閣諸島は中国に領有されたことも無く、琉球領でも無かった。無主島だったというのが現実ではなかったか。ならば1895年に日本が正式に領有したことから、問題すら存在しない。

 中国側は

 「領土に問題があることが分かっているから話しあおう」

 と鳩山元総理に持ちかけ、彼もそれに乗り気だったが、甘言に乗せられてはならないのである。

最後までご覧頂き、ありがとうございました。

                          (了)

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