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2018年05月04日18:35

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カレンの葬儀に行ってきた




2018年 5月 3日 (木)

カレンの葬儀に行ってきた。 気分が乗らないまま昼過ぎにシャワーを浴びて久しぶりにスーツを着た。 1月の終わりに母の納骨に四天王寺に着て行って以来かもしれない。 その前は12月の初めにアンドレイの葬儀の時に着た。 この頃スーツを着るとなるとそういう機会ばかりなのだ。 その時葬儀会場となったライデン市の斎場に今日は自分で運転して出かけた。 アンドレイの時はまだ体調も精神力も回復しておらず家人に乗せてもらって出かけたのだったが告別式が済んで皆で悔やみの集まりが別の会場であったのだがそれまで体力がもたず疲れてすぐもどってきたのだったが今日は式の後クラブハウスに戻ってそこで彼女を偲ぶことになっていてこのごろ金曜の夜にクラブに出かけるぐらいは徐々に運転するようになっているから自分でハンドルを握ることにした。 けれどまだ100kmも運転するところまではいっていない。 手術後半年からほぼ一年も運転していなければ何か怖くなっていて周りに過剰に注意が行って危なくて仕方がないのだ。

定刻の5分前に斎場に着くと入口ロビーには予想以上の人が集まっておりその顔触れはアンドレイの時とほぼ同じく射撃クラブのメンバーが大半だった。 静かな音楽が流れる中会場に導かれ200人ほど収容できる会場に100人弱の参列者が集い簡素な式が執り行われた。 射撃クラブの会長、世話役の一人がスピーチをし、その後喪主であるカレンの伯父が彼女の子供のころの思い出を語った。 彼女が母親と一緒にクラブに入ったのは2003年だったと会長のスピーチの中にあり、だから20年ほど前の彼女の面影を思い出そうとしてなかったことに気づいたのだった。 最期は大学病院に収容され5日ほど闘病した後、腎機能が不全となり意識がもどらず逝ったのだと後の偲ぶ会で世話役から聞いた。 それまであまり行き来の無く喪主となった伯父は連絡の後4時間ほどで今日の次第を取り仕切ったと言っていた。 音楽はアヴェ・マリアだけだった。 スピーチの後参列者が一人ずつ棺の前に立ち黙とうをささげ別室に退出した。 そこではコーヒーとケーキがふるまわれ歓談のあと喪主・親族に挨拶して斎場を出た。 初夏の雲ひとつない青空が広がっていた。

クラブハウスに来てみると40人ぐらいが集まっていた。 入り口近くの我々が何時も輪になって座っていたテーブルにはカレンの写真と蝋燭が置かれ、カレンの葉巻で彼女を偲んでほしい、と細い葉巻が入った見慣れた箱とライターが置かれていた。 自分は持病の喘息があるのでこの8年ほどやめている。 けれど一本手に取って別のテーブルで火をつけずに匂いを嗅ぎながら仲間と談笑した。 女性会員が美味い摘みを何種類も作ってきていてそれが皆にふるまわれ午後のパーティーとなった。 話の中でカレンが自分の運命を悟っていたふしがあることが語られた。 複雑な病名の何とか症候群というのは遺伝性で父親も母親も同じ病気で亡くなっている。 だからそれは自分に現れると言うのを医学的にも確信していてその通りに推移し、だから誰とも関係をもたず子供もつくらず自分で絶やすのだと身近なメンバーに言っていたらしい。 

歓談の中でメンバーの何人もから誕生日おめでとうと言われ握手・ハグが続いた。 ここの連中はそういうことに律儀なのだ。 ハグ・キッスはいいけれど祝いの言葉は嫌であいまいに返事をしていると80になる会員の75歳になる隣に座った奥さんから手術から生還して一歳の誕生日だからいいじゃないの、と言われた。 家では家人、こどもたちに誕生日のことは一切しない、といってあるので今日は静かにすごす。 クラブのメンバーは別としてメールに沢山そういうメッセージがあった。 特にフェースブックに幾つも来ていた。 もう何年もやっていないで書き入れることはせずただ他人のものを観るだけだけれど誕生日のことは年賀状と同じようにもらってもこちらから返事は出さない、ということにしている。 ひたすらそのうち忘れられて何も来なくなるのを待つという態度だ。 人の誕生日は祝う気持ちはあるけれど自分のものにはそんな気持ちにはならない。 これは小さい時からそうだった。

5時になったので帰宅した。 おととい多めに作ってあったスパゲッティ・ソースの残りを使ってラザーニャを作りそれで夕食にした。 初夏のいい天気となったから夕食後9時半まで外は明るかった。
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