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2018年03月10日02:04

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生ける秀頼、死せる秀吉を走らす

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運命とは皮肉だ。淀の方が再び懐妊したことで、秀吉は我を忘れる。やがて秀頼が生まれ、天下の行方は混沌としてくる。

秀頼をなんとしても世継ぎに。秀吉のその思いは甥の秀次にも伝わり、後に殺生関白と称される暴挙を行う。

激怒した秀吉は秀次を切腹させ、側室10数人を皆殺しにした。かつての太閤秀吉では考えられない事態だった。

一方、次の天下人は徳川家康と思い定めていた真田昌幸であったが、好きな男秀吉に肩入れすることを決意する。真田の本家と分家が意志を分け始めた最初の出来事だった。

そして、一旦は講和に向かうかに見えた明国・朝鮮との間柄も決裂し、秀吉は再び朝鮮出兵の意志を固める。

同じ頃、近畿を巨大な地震が襲いかかり建築中だった伏見城が壊滅してしまう。

今、太閤秀吉に仇なす勢力が攻めてきたらひとたまりもない。側に仕えていた真田左衛門佐幸村は緊張する。

一団の兵がやってきた。加藤清正であった。石田三成らの讒言により、不当に謹慎させられていた清正だったが、秀吉の身を案じて駆けつけてきたのだ。

その心根に感動した幸村は、やはり身を挺して秀吉と清正を面会させ和解させる。

再度の朝鮮出兵により、豊臣の天下が風前の灯となるなか慶長3(1598)年8月18日、遂に秀吉は63歳の波乱に満ちた生涯を終える。

秀吉の死から僅か半年後、後事を託された前田利家も後を追うように亡くなった。

秀吉・利家の死で後ろ楯を失った石田三成は、一時は武断派の加藤清正・福島正則に暗殺されかねない事態に陥る。

仇敵である家康の懐に飛び込むという秘策で難を乗り切ったが、隠遁の道を余儀なくされる。

秀吉も利家も死んだ。目の上のたんこぶだった三成も、佐和山に引きこもった。家康が次の天下人の如く振る舞うようになった瞬間であった。

真田の草の者の暗躍が著しくなる。天下分け目の関ヶ原の合戦まで、およそ1年余りのことだった。


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