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2017年10月20日00:49

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川上未映子 著 「ウィステリアと三人の女たち」 を読む




川上未映子 著



ウィステリアと三人の女たち



新潮 2017年 8月号



本作は文学雑誌「新潮」8月号の巻頭作である。 目次には、取り壊されていく老女の家。真夜中にわたしは、瓦礫の重なる廃墟へと足を踏み入れる。 暗闇と静けさの中で発光する、女たちの時、とあった。 

この全28頁の短編は6つに番号が付けられ区切られており、殆どが2−4頁の短いもので5番目のセクションだけが12頁であるからこの部分がこの物語で最も肝心なことが起こる部分と想像されるのは当然のことである。 

1 主人公の女性は現在38歳、夫は外資系製薬会社の営業で3つ上の夫と夫32の時に結婚し3年後に一戸建ての家を買って現在に至る。 専業主婦のようだ。 日常はほぼ決まったように掃除、炊事を心掛け、余り物は残さないから冷蔵庫はきれいなものだ。 夫は8時に家を出て10時半に帰宅、「夫は時々うそをつく、そしてスマートフォーンの青い画面を見つめている」とある。 「夫の目のまわりは朝が来るたびに暗く沈み、もたれかかるようにドアを開けて家を出る」 これが夫に関する描写である。

2 今までこどもができなかったから不妊治療の時期にきているのではないか、と夫にもちかけ夫の露骨な表情に接し「肺と肺の間を尖ったもので突き刺されるような痛みを感じる」 夫の反対理由は、不妊治療が駄目だった場合、作らなかったんじゃなくて欲しくても出来なかった夫婦となる、だった。 それからこの夫婦にはセックスはないようだ。

3 家の前には解体中の屋敷があり、そこには毎年美しい藤が咲いていたのが今は解体クレーンで掘り起こされ他の瓦礫に混ざっている。 そしてその家に住んでいた老女のことを思い出す。 藤が咲き乱れ花弁が周りに散らばるとその老女はマメに掃いて集めていたのだが偶に外で会っても挨拶もなく、ほぼ単身者の老女のことを知らないのに気付く。 ある日、その瓦礫のそばに佇んで眺めていると一人の女がいて立ち話をする。 その女は夜、夜中に空き家に入るのが趣味でその時の気分、感覚を話す。 そして家が壊される時にはその時にしかない音の成分、つもりのようなものが聞こえるのだという。

4 夜、夫が自分を呼ぶのが聞こえなかった。 夫が接待ゴルフの夜、一人ソファーに坐りつづける。 午前一時に家を出て空き家の瓦礫からまだ残っている家の中に入り絨毯を踏みしめ暗闇の中に居る。 自分自身と闇の境は上下する腹部の間隔だけである。

5 闇の中で老女の生涯を想像する。 その唯一の縁は家の前で見ていた古びて褪せた英語教室の看板で、そこには英国人の先生が教えます、とあったことだ。 想像は続く。 その老女は未婚で父と住んでいた。 大学では近代英文学を修めヴァージニア・ウルフを研究した。 英国人の先生は、きみのことをウィステリア(藤)と呼んでいいか、と訊ねる。 そのうち教師に対するあこがれが昂じ夜中に先生が戻って来ることを望むがそれは起こらない。 ウィステリアは当時38歳、ウィステリアはその英国人との子供をなすということがどんなことか想像するが娘などうまれない。 その英国人も女なのだからだ。 教師には娘があったけれど3か月で死んでしまったといい、その赤子が死んだのはわたし(ウィステリア)が彼女との赤ん坊を望んだからで、ゆるされないことを望んだからだ。 彼女は英国に住む年老いた親を看るために帰国する。 それから英国に時期をおいて何回も手紙を書くが返事はない。 ウィステリアの父も死に、一人ほそぼそと英語教室を続けるが或る時英国から彼女の出した手紙の束と教師が死んだことを告げる手紙が届く。

6 解体中の家からでて家にたどり着くと夫が戻っていた。 夫は彼女の様子に驚き、何だそれは、と問うと彼女の体には無数の白いものがひしめいていた。 藤の花弁なのだ。

そして夫に「もうあなたとは関係がない」と宣言する。 彼女はベッドの上で微かな音を聴く。 つもりのようなものを聴いているのだった。



川上未映子の作品を読むのはこれが初めてだった。 ただ何年か前に対談集「六つの星星」2010年、文芸春秋社を読んでいた。 本書読了後にこの中で松浦理英子と「性の呪縛を越えて」と題して対談している部分を再読して得るところが多かった。 今まで川上作品を読まなかったのにはいくつかの理由がある。 芥川賞受賞作「乳と卵」を文芸春秋で読み始めその大阪弁と語りに違和感を感じ、齧っただけの食わず嫌いでやめてしまったこと、それと詩人でもあることが理由だったと思う。 自分は感受性が乏しく詩がわからないからだ。 そして側聞するところでは松浦や多和田洋子、樋口一葉などに親和力を感じているということのようだ。 それでは他の女性作家、金井美恵子、笙野頼子にはどうだろうか、瀬戸内晴美や曽野綾子、佐藤愛子、林真理子には?と様々に想像が向かう。 

本作の題に「ウィステリアと三人の女たち」とあってそれは少々紛らわしい。 先ず、ウィステリアを主人公の想像上の人物とすると計4人になる。 ただウィステリアを藤の花だとすると3人で、その3人は 1)自分、瓦礫で会った女、老女 2)自分、老女(ウィステリア)と英国人。 ウィステリアを人物だとすると4人となる。 そうなると 3)ウィステリア、自分、老女、瓦礫で会った女、 4)ウィステリア、自分、老女、英国人 とこれが考えられる組み合わせだろう。 けれど実在の、あるいは実在だったのは1)自分、老女、瓦礫で会った女だけで、それだけでは中心部分、つまり5の部分は成り立たない。 つまり藤はあるけれどウィステリア(想像上の人物)も英国人教師も存在しない。 かれらは主人公、わたしの想像の産物だからだ。 ウィステリアと英国人教師はベートーベンのピアノソナタ第32番、第二楽章を聴き、ウィステリアは大学でヴァージニア・ウルフを勉強した。 つまりこれらは皆私が経験したことであり、ヴァージニア・ウルフの生涯、ジェンダーが私の中に通底するものとしてある、ということだ。 全ては色褪せて掛かっていた英語教室の看板と瓦礫で会った女の言った言葉から始まった世迷言なのだ。 そして最後にわたしはベッドの上で微かに家(家庭)が壊されるときにしかない音の成分を微かに聴く。 「つもりのようなもの」、これからの心構えとか、これからこうなったらというような仮定のことどもを思い浮かべそれに聞き耳を立てるのだ。 そこには夫、その男はいなく、けれど先生のようなジェンダーフリーの人物に親和性をもつが女ではこどもができないことを拒否された想いを経験している。  このジェンダーというところでことばに関して面白いことがあった。 つまり英語の you がここでは、きみ、と訳されていることで我々はすぐに発話者が男だと思う。 もし発話者が女だとすれば多分「あなた」と言う風に訳すと思われているからそこに当初は男女間の関係かと想像が行くのだが、のちにこの英国人教師が女だと分かると俄然ある種の男っぽい女性かもしれないとも想像が行きそういう女性に惹かれるウィステリアの性向にも想像が行く。 

川上は松浦との対話「性の呪縛を越えて」で「女の子同士で話しているとよく、女として生まれたからには産みたい、っていうじゃないですか、とてもインパクトのあるセリフなんだけど、そこにはすごい飛躍があると思うんですよね。、、、どうしてそういう気持ちになれるのか単純に知りたい、、、、、実感としては納得できない気分があるし、、、」(P96)ということの幾分かの回答が本作には示されているように思う。 ただ、そこには自分の或る気持ちとそれに対する男の反応に対する反発が大きく物語を動かしているのではっきりした回答とはなっていないような気もする。 それはそんな男の拒否反応が、欲しい先生のこどもが先生が女であるから不可能であること、それが昂じて先生の産んだ娘が死んだのは自分が欲したからだとの世迷言までに及ぶところに、欲しいのに与えられないという不満として現れている。 そして男の反応から男を拒否して女に向かうフェミニズム的バイセクシャリズム、ヴァージニア・ウルフ的なものが通底しているのだ。 「もうあなたとは関係ない」という「もう」の程度が、男の「自分を理解しない(だめさ)」加減によるのか女の「欲しいものを男(夫)に頼らず自立しなければらちが明かないという覚悟」の加減によるのかいずれにしてもここには男の出る幕はあるのだろうか。

先日観た映画「そして父になる」で妻が夫を見限るような危機的なセリフがあったことを思い出す。 6年育てた息子が産院でとり替えられたと分かった時に夫が「やっぱり」と妻を突き放したような言葉を発しそれが妻にはこころの棘となって一生忘れられないものになる、というものだ。 妻には母性を拒否するものとして響き、夫にはだから違和感があったのだ、という、これは本作での「不妊治療が駄目だった場合、作らなかったんじゃなくて欲しくても出来なかった夫婦となる」に相当する。 それにしても日本の頑張る男たちが忌避されるパターンの月並みさはどうだろうか。 これが潜在的に日本の夫婦生活に通底しているということなのだろう。 だから妻が子供をつくろうと言えば努力することだ。 でないと女は女に走るぞ、ということになりかねない。 たとえ子供を作ったとしても女に走る女は沢山いる。 そんな女たちを自分の周りに何人も知っている。 フェミニズムの基本は人間の基本である自由の確保の上にあること、つまり思想と経済・財政の自由が保障されることで、そこから性を含むか性を越えた男女関係を紡ぐ可能性が開かれるだろう。 だから本作でそれを当てはめると既に専業主婦ということと夫の描写に鼻の利く男は、これは男には分が悪いと嗅ぎ取ることもできるはずだし、フェミニズムの基本が思想と経済の自由というのなら男のそれと齟齬はないはずだけれどこうなるのはどうしてだ、と考え込まざるを得ず、これは単に男の性、女の性、とだけ抽出しても解決には至らないような感じもする。 甚だ抽象的ながらどちらの性も、求め、求められれば供給するというメカニズムが十全に機能するよう努力する、というしか言いようがないような気がする。 周りを見渡して上手く行っているものたちの例に倣うぐらいが精々だろうか。

事の初めは何年か前に既に8割がた読んでいた赤坂真理著「東京プリズン」が書庫の中でみつからず他の女性作家の物を読もうと行き当たった作品だった。 この後、川上の「乳と卵」、「ヘヴン」も機会があれば読みたいと思う。
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