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2017年10月05日22:34

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有元利夫

剥落したような画面、
男とも女ともつかない人物、
時がとまったような静謐さと典雅さ。


有元利夫展〜物語をつむぐ
@アサヒビール大山崎山荘美術館
フォト

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簡単なエスキースを描こう。
物語をつむごう。
ささやかな出来事やささやかなキッカケを
大事に大胆につむぐ。
これが明日からの仕事だ。
(1984年5月25日金 有元利夫の日記より抜粋)

ということばが掲げられた展覧会です。
38歳で早逝した画家。
20年来のファンですが初めて向かい合った作品もありました。
実物をみると驚くのはサイズ感ですね。

未完成作品や愛用のブロックフローテなども展示されています。

展覧会は12月10日まで。 http://www.asahibeer-oyamazaki.com//tokubetu/33768/


****


鑑賞後は奥様である有元容子さんの講演をききました。


有元利夫〜物語をつむぐ 作品とその周辺
有元容子(日本画家)


私は有元の生まれた頃は存じませんが、まず簡単に有元の生涯をご紹介します。
短いのですぐ終わりますが。それから作品や思い出についてお話しようと思います。


(映像を映しながら)こんなひとでした。
1946年、終戦の翌年の生まれです。
私は1949年生まれで今年68歳になりまして、息子が34歳です。
ですからこの写真は私の息子です、といってもおかしくないくらい。
今年が有元の33回忌だったのですが法事を忘れてしまって友人に怒られました。
来年しますが。この33年間で有元についての考えが若い頃を変わったところもあります。
そんなこともお伝えできたらなと思います。


【子供のころ】

有元は岡山県津山市で生まれました。
これは父の故郷で、疎開先です。
父が大陸の戦争から戻ってきてから、四男として生まれました。 一家にとって新しい時代の希望の光のような存在ですね。
それからすぐ東京の谷中に戻っています。

この谷中というところは下町で、路地が多いのです。
父はそこにたくさんの 借家をもっていましたが
土地や家屋を管理する仕事がいやになって文房具屋を
はじめます。 親が商売で忙しいので利夫はおばあちゃん子で育ちました。
乗り物酔いがひどくて、遠足も最後の一回しかいっていない。それもおばあちゃんつきで。
ちなみに大人になっても乗り物は嫌いで海外などあまり行きませんでした。
私と結婚して1年は目黒に住みましたが、そのほかはずっと谷中。
小学校の同級生は職人やお寺の子供さんが多かったようです。
このおばあちゃんが絵の具も買ってくれたんですが、
私もお会いしたことがあって、 とてもセンスのいい人でしたね。


そのうち中学受験をします。近所に開成という有名な進学校があって、
当然のように落ちてしまい、公立に行くんですが、
受験のストレスというか 空っぽになってしまって、
中学のことは何も覚えていないと言っていました。

だからでしょうか、高校受験は最初に受かった私立の駒込高校に早々に決めて 進学します。
そこで美術の先生だった中林忠良(ちゅうりょう)先生という版画家に 目が覚めるような題材に出会わさせていただくんです。
その時代はビートルズも大変流行っていまして、もう終わってしまいましたが ドラマの『ひよっこ』あのみのるさんの弟のような感じでギターとか ドラム、トランペットまでかじったようです。部屋にありました。

【藝大時代】

さて大学ですが、さきの中林先生にほめられたことが唯一の光となって
ほめるって大事ですよね、東京藝術大学を目指します。
藝大は実技もたくさんあるんですが、学科の方は当時英国社、デザイン科だけ 数学がありました。
結局4浪するんですが、ひとつの予備校で頑張ったのではなく都内の予備校には 全部行っています。
そして友達をつくるのが上手いひとで、全てのところで友人ができました。
藝大に受かったとき、(私の)友達がみな「有元くんがはいってくるのよ」って言うのです。
それ誰?うわさになるのならよほどかっこいいのかと思いました。
「いま大浦食堂にいるから」というので紹介してもらったら・・・
3歳上でしたし経験ゆたかで、とにかくいろいろなことをよく知っている人でした。
思いつくとすぐ実行にうつす人でしたね。

私は運良く現役で合格したのですが、材料のことを理解するのやら苦労しましたし、
人見知りで困りました。
反対に利夫は学校内のすべてが知り合いでした。4浪していますからね。
勉強はまじめにしていました。リーダー的な存在で。 歳も上ですし、同級生の作品の中では自分が一番でなければいけない、という 意識があったんでしょうね。
私は3年生でしたが制作のヒントもよく貰いました。
絵に対する考え方も利夫によって変わりました。


【卒業制作】

海外旅行の話をしましょう。
1ドル360円の時代でしたが、美術館に本物の絵を見に行きたい、と。
2週間です。南回りでしたから印度経由でローマに着くわけです。
初めてポンペイの壁画をみて、やられた、といっていました。
フィレンツェの宗教画はあまりピンとこなかったようです。
ミラノ、フランスはルーブル美術館、ロンドンへ行ったらアビーロードで ちゃんと横断する写真をとって。
オランダのフランドル派ですか。細い筆で克明に描かれたものにガーンときて 日本人の自分にはこれはムリだと思ったようです。
3年生になる前の春休みのことでした。


さて、4年になると卒業制作があります。なにをテーマに選ぶか。
当時は学生運動が盛んで授業がボイコットされることもしばしばでした。
それで先生方も随分お辞めになりました。
美術大学の先生というのは作家ですし、生き様を教えるような感じだった。
酔っぱらって来られる方もあったけれど、それであのすごい作品が描けるという のがかっこよかったですね。
授業ができないのなら家で制作していたいと思われるのか、何人もお辞めになりました。

学生の制作の方向にも時代がうつり、今までの体制を打ち破らなければならない、 新しい物を考えよう、と叫ぶわけです。でもいっているばかりで実を結ばない。

そんななかで有元はポンペイの壁画が自分にしっくりしたのはなぜかと思い返します。
生まれ育った谷中にはたくさんあった・・・そこに共通点を見出したのです。
油ギッシュなフランドルは嫌だ。教会の壁画のようなさっぱりしたものが 日本人である自分にはとっつき易い。

絵の具というのは天然の鉱物から作られてきました。
日本も同じです。 それを何のノリで画面に定着させるか。
油絵ならオイルでキャンバスに。 日本画ならニカワで和紙に。 壁画は炭酸カルシウムのしっくいが乾くときのガラス質の下に定着します。

有元はあの古いものをやってみようと思いたちました。 新しく描くのに古いもの・・・時を経たもの・・・ そうだ、「風化」を再現しよう。


◆私にとってのピエロ・デラ・フランチェスカ
卒業制作の10連作です。古い服装の人物とか、トスカーナふうとか、 背景の遠景とか。
ベン・シャーンしてるのもありますね。
この卒業制作作品は買い上げになりました。 こうして保存されていて貸していただけたりするのはありがたい事です。


【画家専業となるまで】

卒業後、有元は電通にデザイナーとして就職しました。
優秀なカメラマンとか優秀なライターなどがごろごろいたそうです。
そこで新聞や雑誌の広告を担当しました。
「すごい人はすごい」といつも言っていました。
電通には3年いて、辞めました。


辞めた理由は絵が描けないからです。
土曜日も半ドンで仕事でしたし、制作の時間などない。
個展の約束もしたりして売れていましたから
なんとかなると思ったんじゃないでしょうか。
「辞めようかなあ」というので、私もバカで「辞めれば」って 言ってしまいました。
普通なら絶対ひきとめるんでしょうけどね。


それで毎日が日曜日になりました。
週2回、藝大でデッサンの講師をしていましたが、いただいていたのは タバコ代くらいですね。
近所ですから自転車通勤。
そういえばサラリーマンのときはよく定期券を落として困りました。
持ちつけないんですね定期券なんて。


結婚当初は「容子も描いたら」というので私も春画会へ出したりしていました。
利夫のサジェスチョンでいい絵になって賞をいただいたりして。
ところがだんだん、夫が帰ってきても妻が描いていたりして ごはんができていない。
何か言うと不機嫌そうであると。
「描くのを休んだら」
「休まないって言ったら?」
「別れるしかない」・・・ それで私は筆を折りました。

「容子は僕が死んでから描けばいいよ」
えーっそんなお婆さんになってから?と思ったら こんなに早かったなんて。


(以下、作品をスクリーンに映しながら)

◆重奏  
浮遊するひとが描かれています。  
20点くらいの個展で芸術新潮の山崎さんがとりあげてくださって  
宮本輝の『青が散る』の表紙になりました。  
このあと何回か表紙にしてくださいました。  
どんどん売れて、売れすぎて大変だったころです。

◆行く日  
二つ繋がったようなかわった額縁です。  
ヨーロッパの古い額縁には素敵なものが多くて。  
このように額縁だけアトリエに飾っています。  
私も試しに買ったら、有元の絵より額縁の方が高かったりして。  
買ってきた物を見本にして作ってもらったりしました。

◆エテルナ  
0号より小さな作品です。  
欠けた額縁にあわせて描きました。
◆(祭壇画のようにした作品)
◆(イコン風の作品)  この額縁は自分で作っています。
◆キクラデス  
キクラデスを見てかえってきて、ネオマーブルっていう 粉をかためたものを掘ったものです。
 本物そっくりに出来すぎたので台には立てずにおきました。



【音楽】

音楽との関係をお話しなければいけませんね。
藝大では音楽部が隣にあって、入ったらどこでも行けると思ったん でしょうか
「自分もやってみたい」。

そこで部活のテニス部のひとに
ちなみにテニス、なんてピアノとかヴァイオリンといったひとは やらないわけですよ、手が大事ですからね。
ビオラとかチェロの人たちに訊きまして。
「譜面は?」
「よめない」。まあギターはコードで弾けますからね。
「でもやれるもん、ない?」
「リコーダーなら。楽理科の先生がリコーダーだから頼んでみれば?」

そこで先生のところへ行く。
「教えてください」
「いいよ。でも他の学生と同じ条件なら」
そこで必死に練習してました。食堂の前でとか、普通なら恥ずかしいと 思うんじゃないでしょうか?とにかくピーヒョロピーヒョロと。
とにかく半期やって『忠実なる羊飼い』をふけるようになりました。 これは褒めてあげたいですね。


それ以来演奏の楽しさを知ったのです。
バロック音楽。リコーダーもソプラニーノからバスまでいろいろあるし。
彼は友人をたぶらかすのです。
「楽しいよー」って。
グループを作って、なかにはピアノを弾けるひともいましたし アンサンブルを楽しんでいました。

レコードを聴いたりコンサートに行ったりはあまりしてませんでした。
一度海外のフルーティストを聴きにいって
「全然ちがってた」
「あれが本当なら俺のは何?」
ってしょんぼりしていました。
絵のタイトルに音楽に関するものは多いです。

◆ラルゴ
◆プレリュード

ヴァージナルという古楽器を買ったこともあります。 作品にでてきます。


◆花降る日  
安井賞の特別賞をいただいた作品です。  
安井賞は具象油彩の登竜門でしたから、岩絵の具という画材が  
問題になりました。しかし結局テーマは日本画ではないからと  
いうことで50号という小さな作品ながら特別賞をいただきました。
受賞すると個展や展覧会のさそいで多忙になっていきます。


【ステージ・アルルカン】

◆(タケノコみたいなアルルカン)
◆(袋にはいったアルルカン)

ヨーロッパで帽子つきのアルルカンの衣装を買ってきまして。 私がうんと瘦せると着られるようなものです。 マジックや手品もよくテーマに選んでいました。
彼には絵自体はステージの上で行われているイメージだったのでしょうね。

◆(ステージ上をはしるような雲の絵)
◆(花火)


◆室内楽  
100号。2年後に安井賞をいただいた作品です。  
手首が腱鞘炎になって困っていました。

◆厳格なるカノン  
これはうちにある梯子です。  
梯子をのぼらないと入れない物置があって。  
ですからこの梯子を登っているのは私です。  
カーテンはあとから描かれました。はじめは上まで  
梯子があったのですが、天まで昇るようで嫌だといって。


◆覆われた時計
◆(時計) 
◆花吹  
同じ時計がモチーフとして出てきます。  
これは目黒の新婚時代にゴミ捨て場でひろったもので
「越後獅子」のオルゴールがついています。  
有元の制作は夜型で、ほろよいで描くと傑作ができたと思うのですが  
翌朝みるとなんだこれ、ということがあったようです。
《覆われた時計》も完全に時計が描かれていたのですが、人と時計、という  
関係性が意味を持ってしまうようで嫌だ、と布で覆い隠してしまいました。


【材料と仕上げについて】

◆幕間の再開  
ターコイズの美しい幕が描かれています。  
先程も申し上げましたとおり、  
マラカイトとか、ラピスラズリとか、水晶とか、  
顔料は宝石を砕いたものですから表面がキラキラしています。

◆(スケッチブック)  
(今展にはいくつかのスケッチブックが出ていました)
小さなスケッチブックを持ち歩いていました。  
アイデアはすぐに書き留めないと忘れてしまいます。
そういったメモも山のように残っています。


◆(絵の部分拡大)  
表面にひび割れやこすれを作っています。
よく時間がたったらはがれてきませんか、と訊かれるのですが  
補強していますのでこれ以上は剥がれません。  
下の板が見えているものもあります。

◆ロンド  
いつも(画面の中に)ひとりしか描かないの、と訊かれて描いたのがこれです。
(4人の女神が輪になって踊っている)  
ボッティチェリ風というか。これは上空に人がいますが
いないものもあります。

◆果物  
唯一の果物を描いた作品です。いまとなってはマルメロか花梨か  洋梨かわかりません。

◆出現  
弥生画廊の最後の個展の作品です。息子が生まれて、凄く喜んで。  かざしている手の花は息子です。  その後入退院をくりかえして38歳で亡くなりました。


【版画・彫刻・素描】

電通時代に印刷の版下にふれた経験から、有元の版画は全ての色を 4色で出そうとしています。普通緑や紫はその色を使いますが 4食の重なりで色をつくっているのが特徴です。

◆(馬にのったひと)
彫刻は一点物だと売れるとなくなってしまうので これは乾漆ですね。

◆犬
◆アルルカン
これは彫刻です。器用なのと芸術的なのは違う、とつくづく思います。

◆(アトリエの写真)


【Q&A】

問い。
アトリエで制作中には音楽をかけていらっしゃったのでしょうか。

答え。
バッハとかビバルディをかけていました。 はまりすぎると駄目なのでそんなときはTVをつけたり。 モーツァルトは面白すぎてだめだといっていました。 静寂が嫌いでさみしがりやで私もよくよばれました。


問い。
意味をもたせないことが作品の魅力かとも思いますが。 無表情で仏様のようです。

答え。
人物は男か女かわからないとはよく言われます。 ヘン。 ヘンだとおもうことがはまっているということ。
ステージにハサミで切り取ったような青空があったり。
なぜ窓枠がないのか?突然空なのか?
かとおもえばテーブルは逆遠近法に描かれています。
平面的であったり。 大事な意味をもつものを縮尺を無視して大きく描いたり。
「おかしい、ヘン、とおもったら思うツボ」だと。
有元利夫ワールドにひきこまれている。 へんだなと思いながら見ていただきたいです。



【展覧会タイトルについて】

有元が描いていたのはバブルの時代で、売れてうれてしょうがない 状態でした。
でも有元は個展をひらいて作品を発表していきたいというスタイルで 仕事を断らなければならない事もあり、
誹謗中傷されたりもしました。
どんどん値段のあがっていく作家もいて
そんななかで自分を見失わずいい作品を作るにはどうしたらいいかを いつも考えていました。
そのころの日記をみると、
地道にゆっくりコツコツと自分の描ける 物語をつむごうという主旨のことがかいてあります。
ピカソのようにすぐに才能がわかるような人ではないけれど 作るのがすき。
流れにのるのは簡単だけれど、じっくり時間を掛けて描いていきたい。
足下を見極めながら糸をつむぐようにやっていきたかったんだろうと思います。

これは自分も再び制作をはじめたからわかったことです。
すこしでもいいものを描きたいんです。
全てが傑作ということはないのですから。

*****

地中館(by安藤忠雄)の常設展では
モネの《睡蓮》に《日本風の太鼓橋》、ジャコメッティの《ヴェネツィアの女》、ピカソの《横たわる女》などが見られます。

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