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2017年08月16日04:35

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今さらウォルト・ディズニーの“精神”を云々するのは“老人のたわごと”か? アンドリュー・スタントン監督「ファインディング・ドリー」(2016)。

当然のことですが、僕がここで言う“ウォルト・ディズニーの精神”は、反共愛国主義などのディズニーのことではありません。あくまでも、アニメやアミューズメント・パークの製作にあたって、子供たちの“あるべき姿”を考えたウォルト・ディズニーの精神です。それがキリスト教的思想から発生していようと、いいものはいい、と断言しておきます。

この「ファインディング・ドリー」は、「ファインディング・ニモ」(2003)の1年後と言う設定だそうです。ニモを助けたドリーが主役。短期消滅記憶力のドリーが、家族と再会できるかという物語で、ニモとその父親も登場します。

13年後に1年後の話を作っても、何も問題はありません。また、ニモ以上にディスエイブルなドリーを主人公にしても、いささかキツい印象はあるけれど、それをやさしく包む愛情があればいい。実社会で他者への愛情が乏しくなっている今、その必要性は感じます。

とはいえ、そういう建前だけが立派でも、アニメとしてどういう面白さを提供してくれるか、これが最も重要です。今回は今まで以上にリアルな舞台装置(水族館内の人間たちや器械など)の迫力、そして動きのスピード感は圧倒的でした。しかしそういう表面的な出来ばえを越えて、心に突き刺さるドラマがない。

元々「ファインディング・ニモ」にも、安易なお約束を越えるドラマはありませんでした。だから僕はこの「ドリー」を劇場で見る気はしなかった。今回のリアルな描写とアクションのスピード感は、劇場の大スクリーンや3Dなら圧倒的でしょう。しかし僕にとって映画は、アミューズメント・パークの絶叫マシンではないのです。

絶叫マシンのスリルという感覚は、確かに得難いものではあります。僕も一時期、大いにハマりました。しかしそれだけを映画に求めるのは、ピンク映画に絡みシーンだけを求めるのと同じ行為だと思うわけです。ピンク映画の絡みシーンが重要という考え方も、それはそれで認めます。でも、それだけじゃあまりにもさびしい楽しみ方ではないですか?

少なくとも「Mr.インクレディブル」(2004)という映画には、フリークと疎まれそうな登場人物たちがスーパーヒーローとして活躍する爽快感があり、その“思想”が娯楽として結実していました。今回の短期消滅記憶のドリーは、「50回目のファースト・キス」のドリュー・バリモアの愛らしさに遠く及びません。むしろ痛々しい。

そんなドリーが、結局次々と記憶を呼び戻していく、というお約束に説得力が皆無なわけです。努力? 何もしてないよ。単に思い出すだけ。必要なことを次々簡単に思いだせるのなら、そもそも問題がないでしょ。せいぜい面白かったのは、冒頭シーンで先生の助手を務めるドリーが、生徒を前にして言い繕うギャグだけ。それじゃ吉本の若手のくすぐり笑いと似たようなもんでしょ。

要するに、シガニー・ウィーバーがわざわざ名乗って出演を強調するなど、押しつけがましい構成が、その製作態度が問題なのです。それはディズニーのCG大作が、一発当てた作品の二匹目のドジョウを狙うという、安易なスケベ根性にしがみついているのと同じです。ウォルト・ディズニーは、そんな安易な再生産を認めなかったはず。

だから世界のアニメーターに直接クラウド参加を呼び掛けるという“経済的手段”に頼らず(それで救われるアニメーターは多いだろうけど)、もっとアニメ向上のための本質的な施策を充実させることで、この先10年20年のディズニー社というものの足場を固めなさい。それが本来のディズニー精神だと僕は思う。無茶な弟に押し切られて兄は金策に困ったでしょうが、それが世界のディズニーを生んだわけだし。

その精神を引き継いだはずのピクサーが、安易な再生産に邁進していたら、ディズニー精神は消えてしまいますよ。そして、いったん失った信用は二度と取り戻せませんからね。そもそも写真2、3のような場面はなかったと思う。ないものをポスターにするなんて誇大広告だ!
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