トムプーズ

闘病中の身には飲み物、喰い物の話題は屈折を含む。 現に手術後１週間は飲むことも喰うことも禁じられていて、喰うことに関しては絶えず流動食が腹に開けられた穴から注ぎ込まれ空腹を感じることもなく不自由しなかったのだが喉の渇きは如何することも叶わず、だから日頃は考えても見なかった妙なものが夢に出るというような経験をすることがあった。 胃の八割を失ったものにはいままでの健啖ぶりは二度と戻らないものと諦めてはいるが量は仕方がないものとはいえ味覚の方の変化はなかなか諦められるものではない。 これから何年もかかって慣れていかねばならないものと考えている。

そんなとき枕元にティッシュペーパーの箱が置かれ、おや、っと思った。 オランダの典型的なケーキというかポピュラーな菓子の形をしている。 ぱりっと焼いたケーキ地の間にホイップクリームやバニラクリームを挟んだもので上にピンクのシュガーコーティングをほどこしたものだ。 この１０年ぐらいは少しづつ他のケーキに押されて何かの祝い事のケーキの座から退きつつあるとはいえ高齢のひとたちや田舎の伝統的な何かの祝い事の折には出てくるトムプーズ（Ｔｏｍｐｏｅｓ）と呼ばれる菓子で誰もが知っている。 Ｂ級デパートの ＨＥＭＡ（ヘーマ）の茹でて辛子をつけた立ち食いソーセージに並んで人気商品である。 家人が行った序に見つけて面白がって買ったきたもののようだ。 さすが本物とは思わないが見るたびにトムプーズが思い出されて頬が緩む。 それは単にお菓子が美味いかどうかということだけではないようだ。

大抵これを喰う時の情景が思い出される。 自分では買わないし選ぶなら他のケーキを選ぶかもしれないがこの４０年近いオランダ生活の中でこれを食ってきたときにはこのほかにはクッキーぐらいしかなくケーキと言うとこれだという状況が殆どだった。 フォークが付いて来て先ずピンクの砂糖の部分に直角に立ててフォークでつつき、ミシン目をつけるようにして小さく分けようとする。 中のホイップクリームが柔らかすぎると生地に押されてひしゃげてうまくいかない。 そうするとやけくそになってぐっしゃりと無理にフォークを突き立ててなんとか口に入れる。 無骨な男は初めからそういうことは試みず、人差し指を生地の間に横から滑り込ませホイップクリームを救い取りピンクの屋根と床だけになった部分を齧ってクリームが口の周りにはみ出ないように予防線をはり、その後は同じことを指ではなくフォークでクリームを掬い力任せに無理に屋根をフォークで押さえて折り残骸を小分けにして喰う。 その間にコーヒーを二口、三口啜るとこれが中年男のトムプーズの喰い方となる。 中年のオバサンたちにはいくつかのパターンがあるけれどそれぞれ卒なく時間をかけて小分けにしておしゃべりの間に口に入れるようだ。 このように他の菓子・ケーキに比べてトムプーズにはほんわかとした雰囲気が漂う。 典型的なケーキとして自宅で焼いたアップルケーキにポイップクリームというのがあるがこれには取り立ててユーモラスな雰囲気は漂わない。 それにはトムプーズはケーキ屋からとりよせたものということもあるのかもしれない。

この記事を書くのに改めてトムプーズの由来を調べてみた。 Ｐｏｅｓ というのは雌猫のことで Ｔｏｍ というのは男性名でこの組み合わせは妙だと思っていたからだ。 だから猫なら大抵Ｔｏｍｃａｔとならないといけないものがおかしいとおもっているともともとの由来が１９世紀半ばのオランダ海軍提督 Ｔｏｍ Ｐｏｕｃｅ が何かの折に振る舞ったのが由来となっている。 それにこれはフランス菓子のミルフィーユのバリエーションだともある。 自分はフランス菓子など縁はないし名前は聞いたことはあるけれどこれが「あのミルフィーユ」かと感慨深いものがあったが、おフランスとオランダの田舎の祝いの折に指を舐め舐め破壊するトムプーズの落差にフランスとオランダの違いをみた。 さすがにミルフィーユでは２段、３段のバリエーションがあり間に苺などが挟まれるようだがそうなるともうトムプーズとは間違っても呼ばれない。 そのようなケーキはあるけれどそれは別の棚に飾られて優雅に売られるのではないか。

トムプーズに並んでオランダで儀式の際に必ず振る舞われるものがある。 それは葬式にコーヒーや紅茶とともに振る舞われる Ｃａｋｅ（ケーキ） と呼ばれる菓子だ。 これは日本でケーキとよばれるものとは違う。 オランダでケーキと呼ばれるものは日本ではカステラと呼ばれている。 トムプーズはパーティーの座から徐々に滑り落ちつつあるとはいえオランダのケーキ（カステラ）は葬儀の場では未だ盤石の地位を保っている。 尚、トムプーズは間違っても葬儀の場では振る舞われない。 もしそうなるとそのときの人々の顔つきが思われて頬が緩む、というより爆笑が漏れる。