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2017年03月08日20:32

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ふたたび独多宇一さんについて

亡くなった友人・独多宇一さんの奥様に宛てた手紙                             
 突然のご逝去に対し、心からお悔やみを申し上げます。
 訃報を聞いた1月25日の朝も、そして今も、私は信じがたい思いを抱き続けております。ある種の遠慮からご連絡することを控えておりましたが、たびたび一筆啓上したい気持ちが湧き上がりました。
 昨年の12月5日、新橋で会って3時間近く話し込んだのですが、双葉社に持ち込んでいた原稿が書籍化、ということが決まる寸前だったこともあって、独多さんは珍しく昂揚していました。12月は毎年のように「来年こそはお互いにいい年にしないと」などとダメ男二人は励まし合っていたのが、昨年末は「やれば出来るもんだよね!」と早過ぎる祝勝会のような華やぎに変わりました。締め切りのない原稿を書くしんどさについては知っているだけに、頑張ってきた友だちを頼もしく感じました。
 次は1月末か2月初旬、出版打ち合わせで上京される筈だったのです。
 奥様にとって決していい夫ではなかったのかもしれません。しかし、独多宇一さんは仕事の内容とは裏腹に、シャイで、他人思いで、寛容で、些かも薄汚れていない男でした。そんな損な性格でよくもギョーカイを35年に渡って生き延びられたものだ、それだけでも大したもんだ、と私はずっと思っておりました。ときには独多さんに面と向かって、このような思いを冷やかし気味に伝えてました。
 こんなことになるのだったら、大阪に行くのだった。実を言うと私は大阪があまり好きではないのですが、昨年来、週刊大衆記者時代に住んでいた京橋がどうなったのか、美味しいお好み焼き屋が多数あった阪急東通り商店街がその後どんな変貌を遂げているのかを知りたくなって、独多さんに「今度は私が大阪へ行って会おう!」と言ってました。彼から「陽の当たらないワンルーム」の住まいについて、「繰り返し繰り返し見ている」映画のDVDについてしばしば聞かされていたので、XX(注 独多さんのマンションがあった町の名)から近い天王寺あたりのホテルまで調べたりしていました。
 でも、独多さんあっての楽しい大阪旅行なのです。ですから亡くなったことを知った瞬間、優柔不断な自分をけしからんと憤りました。もはや今となっては何をどう述べようが負け犬の遠吠えのごとき虚しさでしかありません。
 奥様やご子息様も含めて、独多さんご一家に対し「これまでどうもありがとうございました!」と、ここにお伝え申し上げます。これからもときどきは思い出して、手を合わせていきます。
 しばらくの間、法要はおこなわれないのかもしれませんが、私が出席可能な行事がありましたら、どうぞお声をお掛けください。また、それ以外でも何か私がお役に立てるようなことがございましたら、お声をお掛けください。
 末尾になりました。
 どうぞお元気で。 
                               2017年3月8日

 昨日、友人の奥さんから喪中を報せる満中陰志が届いた。うちうちの四十九日法要が終わった、という内容だった。独多さんが亡くなったというのがいまだ不可思議でしかないのだが、1枚の紙っきれが証しとなって目の前にある。受け容れるとか容れないとかの次元ではないはずだが、今日、奥さんに手紙を書くことで少し決着を付けてみようと思ったのだった。
 そう言えば今日の朝日朝刊、一面の連載コラム「折々のことば」に茨城のり子の詩が取り上げられていた。

 ただ透明な気と気が
 触れあっただけのような
 それはそれでよかったような
 いきものはすべてそうして消え失せてゆくような
                       詩集「歳月」から

 ほとんど詩を理解出来ない私なのに、茨城のり子の詩を読むと、感性と言語感覚は表裏一体であるということをまざまざと見せつけられたことが幾度もあった。換言すると、自分の感受性がいかに鈍いか、ということを思い知らされるのだった。
 この詩を解いた鷲田清一は以下のように記している。

 自他がせめぎあうところに二つを分かつ膜ができる。膜をはさんでこっちに私、向こうにあなたが立つ。ほんとうは私もあなたも存在せず、「素敵な気がすうっと流れただけ」かもしれないのに。もし膜がすきまだらけだったら、もっと通いあえたのに、人はそのすきまを塞ぐことでしか自分を護れないと思っている。

 文学的に過ぎるとも思うが、感受性の鈍い人間(=私)にもし文学がなかったとすれば、他者に対する尊厳なんて持てなかっただろうし、多様性も認められないだろう。今日の朝刊・声欄で「読書はしないといけないの?」という21歳の大学生の投稿があったが、既に半数の日本人は月に0冊だという調査結果がある。この大学生もそれを踏まえて述べていた。スマホ時代以前の「太古」から、本を読まない人はクルマを運転しない人よりも遙かに多くて、本なんてどっちだっていいことだ。が、私の精神は確実に、文学があってこそ、ぎりぎりのところで人間らしさを保てているように思う。
 手紙については、出来るだけ文学的な表現を慎むように努めた。「陽の当たらないワンルームで酒を飲みながら映画を観ている」という友人は、文学上の人間ではないからだ。しかし、亡くなった彼を想うとき、人間は文学である、と思えてしまうのだ。対偶をとると、人間という存在は不確かである、ということだろうか。まるで淡雪のごときだ。
 
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