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2017年01月11日21:35

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電動車いす・セニアカーの老人




この間ハーグに出かけるのに駅のプラットフォームに来るともうそこに電車がまっていてそれに乗った。 平日の午後2時は混むこともなく普通より広いスペースの車両だ。 大抵は二階建てか平らな車両で段差が15cm以上あって乗り込むとか上がり込むという風で、乳母車の子どもや自転車を乗せるなら誰かが助けあげるということもある。 それは朝夕のラッシュアワーの時でも同様だ。 ラッシュアワーなら幾らでも手助けがあるからこういう乗客が疎らな時なら逆に若い母親は周りを見渡して駅員を呼ぶことになる。 電車に上がり込めば椅子に坐らなくともいい者たちやスーツケースを持った旅行者たちがいて大部分の乗客はそこから続く進行・逆行方向に椅子が並んだ区画に行くことになる。 そしてそこからそれぞれの場所へ移動することになるのだがここからはこれまで日本で経験してきた社内風景とオランダの違いが出ることになる。

ドアの内部入口付近を家に例えると玄関だとしそこからドアを抜け客室に入ると通勤電車でも日本のように長椅子に何人も並んで向かい合って座るというようなことはない。 つまり吊革につかまって立つような人々を設定していないということだ。 日本の都会のラッシュアワーというものは殆ど見られない。 それは突発事故か天候の具合でダイヤが乱れた場合か何かであって日常には殆どない。 込み合う中で直接他人との肌の接触を嫌うこの国の人々には込み合った車内といっても立つ人の間隔は50cm以上はあるのではないか。 だからここには女性専用車両などというものはない。 今でも帰省する度にラッシュアワー以外の時間にそんな車両に坐っていると不思議な思いを禁じ得ない。 人が多すぎるのだと言われればそれまでなのだが何かがおかしいような気がしてならない。 人間の尊厳にかかわるような気がどこかでしている。 例えばインドの通勤列車に乗ってみればそれがはっきりするのではないか。 仕方がない、でどこまで行くのだろうか。

オランダにも古くからの列車の構造からあたらしい、町と町を繋ぐ中距離輸送列車ができてそれは徐々にどっしりとした「列車」から普通の軽い電車のスタイルに変わりつつあるようだ。 この日乗ったのがそれでプラットフォームから段差がない。 車両と隙間があっても2cmほどだろう。 プラットフォームの床がそのまま車両のリノリウムの床に繋がり今までのように上によっこらしょと上がる感じがない分、何か気が抜けたような気がする。 10両も繋いである電車には当然オーソドックスなコンパートメント式の部分もあるけれど「玄関」部分からはドアもなくスペースには隔たりが無く、 全体の3分の1ぐらいの車両は椅子が両側の壁に跳ね上がっていて座るにはそれぞれが手で下に押さえてから腰かける折り畳み式のものだ。 だからそんなところに入るとやたらとだだっ広くまるで輸送車の中に入ったような気にもなる。 実際人を輸送するだけでなく人も自転車も大きな犬も老人や身体障碍者用の押し車、介護車、電動車椅子を輸送するための車両なのだ。 

入ると老人がそんな電動車いす、というのかセニア―カーで乗ってきていた。 思い出してみれば隣のフィンおばさんがこの車を買ったのは亡くなる2年ほど前で太った体を支えるのに足が追いつかず我が家と全く同じ構造の家の階段の1階から2階に椅子に坐って上がるケーブルカー式のものを設置したのと同時期だった。 下の娘が2つ3つの時だからもう23,4年は経っている。 そういう介護助具を1年も使わず亡くなった。 動きたいという気持ちから造ったり買ったりしたのだがその頃にはもう体がついて行かず居間にベッドを設えてそこに寝たきりになったのだった。 けれどこのセニア―カーを手に入れて喜んでいた時のことははっきり覚えている。 これであそこにも行ける、人を煩わせずとも頼りにせずとも移動できると言い、通りを行ったり来たりしていた。 けれどそんなことを見ていて気になったのは表の段差だった。 この10年で町の段差が大分解消されてそれにつれて街中にこのセニア―カーが目立つようになってきている。 20年前にはフィンおばさんから何回か呼ばれたのはバッテリーの交換、充電操作だった。 若者の電子機器でもネックになるのが携帯などのバッテリー、充電なのだが当時もそれがネックで外に出ようというフィンおばさんが、動かない、バッテリーが弱ってるとこちらにコールをかけるのだった。 こういうのは今では大分よくなっているのだろうが老人には忘れることも多くあるのだろうから問題は今でも変わらないのではないか。 けれど便利は便利で、中には孫やどっさり買い物を乗せて走る老人もいるし犬を走らせている人もみる。 だから町中でもスーパーでもこんな人を見るのは珍しくもなんともない。 けれど人の手を煩わせず乗り込んで車内でのんびりしているのをみるのは初めてだった。

今迄の車両には車椅子などは折りたたんだり、人が乗ったままであれば車掌や赤帽の助けで従来の段差を移動式のスロープをどこかから持って来させて乗り込むのも何回も見ているけれどその客は車両の「玄関」だけにしかいられず混雑していると客室にスーツケースをもって乗り込んでいる人々の出入りに困難を来すこともあるからあらかじめオランダ国鉄に自転車、車椅子専用車両を区間、日時を言って予約しておかなければならない。 可能性としてはあり使う人もいるが客には精神的な、鉄道の係りの両方には人的な負担が係り自然と使うことにブレーキがかかる。 けれど今町にはセニアカーが増え、そのうち高齢化社会のあおりでセニアカーが溢れるのは目に見えており鉄道輸送にもそれに対応することが要求されているのは確かでその結果がこれである。 オランダは世界の中でもトップクラスの自転車道の整備された国で自分の近所、買い物程度ではもうセニアカーは普通であるから長距離移動の手段として鉄道と組み合わせると距離が延びる。 自動車運転免許証の書き換え時が70歳にかかると医者の確認書が要って一定の条件を満たさなければ更新されない。 今のところは5年ごとの更新らしいが場合によっては期間が短くなるかもしれない。  また車の誤作動などによる老人の痛ましい事故が増えてきている折それを抑えるのに貢献することは確かである。 

終点のハーグに着き今まで新聞を読んでいた老人はそれを畳み手袋を嵌め鉄のポールをぐるりと回ってゆっくりプラットフォームに出た。 大きな駅のコンコースから外の道路、それに続くハーグ国会議事堂のあたりも段差はない。 精々路面電車の線路を渡るときはその隙間で揺れることはあっても落ち込むこともひっくり返ることもない。 このようにして体の不自由な老人は自宅から離れた町まで人の手を煩わせることもなく自由に移動できるのだ。 自分もあと20年ぐらいしたらこういうものを一つ買って気ままに移動したいと思う。 移動の自立と自由の実現というのは若い者、健康なものには自明のこととしてある。 老人、体の不自由なものが溢れる社会ではこれが自明ではなくなるけれど、それではそれをどのように扱うのだろうか。 その答えとして今日この老人を見たような気がする。

自分は40年前大阪で日常ラッシュアワーに通勤し、そこでは溢れかえる健常者だけしか見られなかった。 妊婦、ベビーカー同伴の女性、身体障碍者などをみることは殆どなく稀であり、まるで彼らは自立・自由の対極として暗黙のうちに隔離・排除されているようにまでみえた。  それは現在でも事情は変わらないのは昨今メディアでベビーカーを車内に持ち込むことの是非を問う記事がみられることからでも分かる。 迷惑なことが分からないのか、空気を読め、と言わんばかりだ。 その空気は、社会は健常者のためだけのものであり弱者は排除・隔離して移動の自由は必要ない、とでもいうのだろう。 自分は歳を取らない、弱者にはならない、とでも思っているのだろうか。 もし弱者になった場合には排除され隔離され自由をはく奪されてもそれを甘受して、そうなのだから仕方がない、と泣き寝入りをするのが今のまだ老いてはいない者、健常者の覚悟なのだろう。 当分老人の運転事故は無くならないだろうしまだ増えるだろうが、それは老人から運転免許を取り上げるだけでは何も解決されはしない。 社会インフラのハード、ソフトの両方が求められる。

20年後の自分を想うと、オランダに居続ければこの老人の様には移動できるだろうとは思うけれど、日本に住んだ場合には田舎から都会の真ん中まで果たしてこれに乗ってブラブラと電車で移動できるようになっているかどうか甚だ疑わしい。 老人の自立・自由というのは将来老人になる者の自立・自由ということでもある。 これを別とみるところからは解決の糸口は見つけられない。





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