毎年12月12〜15日になると、テレビ局では良く忠臣蔵を採りあげる。最早冬の大河ドラマの定番化した感がある。ただ忠臣蔵とモデルとなった「赤穂事件」は似て非なるものである。最近では混同され、情緒的に
「あれこそ日本人の精神だ」
などと嘯く人まで現れた。本当にそうなのか?
ざっくりと史実としての赤穂事件を綴れば、次のようになる。
1701年3月14日、勅使接待役の浅野内匠長矩が江戸城松の廊下で、高家筆頭・吉良上野介に突然斬りつけ失敗し、切腹・領土没収、絶家の判決を受けた。その結果、藩士は全て浪人になった。そのうちの藩士47名が主君の恥辱を晴らすべく結束して、翌12月14日〜15日未明に掛けて、吉良邸を襲撃、主君の恥辱を雪いだ事件である。
「赤穂事件」、考えてみれば不思議なことばかりである。
浅野はなぜ2度も勅使接待係に就任したのか
浅野はなぜ吉良を殺せなかったのか
吉良による浅野イジメは本当にあったのか
浅野はなぜ断首ではなく、切腹を命じられたのか
そもそも大石内蔵助(良雄)らはなぜ切腹を命じられたのか
よくよく考えてみれば不思議だ。
について。勅使接待役は各大名・小名が生涯1回廻って来るかどうかという状況だ。それ拘わらず浅野は2度も抜擢されている。この点はもっと注目されていいと思う。この時代、徳川将軍は5代綱吉だったが、彼は朝廷から官位を貰おうと必死だった。その綱吉からしたら、失敗は許されない。綱吉は「戌公方」と呼ばれ、大変評判の悪い将軍とされているが、個人的には矢張り名君だったのではないかと思っている。実際、「お江戸」ではこんな言葉があった。
「お江戸に多いもの、伊勢屋、お稲荷、犬のフン」
伊勢屋は伊勢屋という屋号を掲げるお店が多かったからだろう。あのデパートの伊勢丹もそうだ。お稲荷も何となく分かる気がする。何しろ初代家康の母国・三河では豊川稲荷が今でも三大稲荷のひとつとして全国から参拝者集めている。なお東京の分社は赤坂見附駅やホテル・ニューオータニの近くにあるので、お時間の或る時に行ってみてください。
最後の犬のフンはどういうことか。
これは当時江戸では野良犬が多かったことを意味している。そう考えると犬を保護しようとした綱吉はあながち狂っているとはいえない。寧ろ市民の衛生面では大いに貢献したという見方も出来るのである。現にドイツ人学者のベアトリス・メイリー女史も同様の評価を著書・『ケンペルと徳川綱吉』(中央公論社)で行なっている。
この綱吉はそういう細かい実務的なことは分からない。多分側用人たちに選考を依頼しただろう。彼らが考えることは史書には残っていないが、常識から言って、絶対にしくじれないのであれば、経験者から選抜しようと考えるのは容易に想像がつく。
こうして考えると、浅野は無能ではないどころか、ベテランであり、とても人を殺すような暴挙をする人間ではないことが分かる。
まだ結論は出さなくていい。
浅野はなぜ吉良を殺せなかったのか
この時代、江戸城では大刀を帯びることはできない。小刀(脇差)だけである。考えてみれば分かるが、例えばサバイバルナイフで人を殺そうとしたら、どうするか?斬りつける人はいない。鋭く突くはずだ。現に後年乃木希典も
「俺が吉良をやっつけようと思ったら、突く。」
と言っている。しかし浅野は4回も斬りつけている。おかしいではないか。しかも吉良の烏帽子には細い鉄の針金が入っている。そこをたかが脇差でたたいたところで致命傷には至らないことは誰でも分かる。
人が人を殺すような暴挙に及ぶとしたら、どういう理由が考えられるだろうか?
ここで面白い説を紹介する。精神科医の中島静雄という人である。彼は著書・『精神科医の見た赤穂事件・浅野内匠頭刃傷の秘密』にて浅野は統合失調症(昔は精神分裂症と呼ばれていた。言葉狩りは真相をぼやかすので、ここらで歯止めをかけたいところだが)だったと言っている。
統合失調症とはどういう病気なのか。泣きたい時なのに、笑いたくなって困る時があり、とにかく自分の感情が統制を離れて勝手気ままなことをする症状なのである。冷静になる時も勿論あるが、それが出ている時は、時として的外れなことを平気でやってしまう。特に対人関係では突拍子もないことを仕出かしてしまう。
実はこの性質は中島氏に言わせると、遺伝まではいかないが、発作しやすい体質は引き継ぐという。実際、浅野の家系を見てみると、何と叔父である内藤忠勝が1680年に3代将軍・家光の法要の時に乱心し、永井尚長を斬り殺し、切腹を申しつけられている。理由は「乱心」とされた。忠勝も統合失調症だった可能性は高い。となればその体質を浅野が引き継いでいてもおかしくないだろう。
「乱心」によって浅野が咄嗟に脇差を抜いたとしたら、なるほど吉良を殺せなかったのも頷ける。この時代の武士は貴族化してしまったが、それでも突けば致命傷を与えられることは誰でも分かっていたはずだ。
だから吉良も斬りつけられて手当をされている時に「身に覚えのないことです」としか答えられなかったのではないか。
吉良による浅野イジメはあったのか
の中島氏の診断が正しいならば、
もかなり怪しくなる。そもそもサラリーマン、OLの経験がある人であれば誰でも分かるだろう。
▼ある大企業の徳川社長がイベントを催しました。
▼人選にプロジェクトに元経験者の浅野さんをその補佐にこれまた元経験者の吉良氏を選びました。
▼このイベントの最終日には皇室の人もやってきます。
この状態で吉良が浅野を苛めて浅野がヘマをやらかせば、どうなるか?
徳川社長が
「吉良。お前がついていながら、あのザマは何だ。」
と叱るのは目に見えている。ここでもし
「いやあ、あれは青二才の浅野がしでかしたことです」
という言い訳が通らないことは当時も今も同じことである。サラリーマン、OLを少しでもやったことがある人であれば、分かりやすいと思う。仮に本当に吉良が浅野を嫌いぬいていて、イジメようと思っても、やったことで浅野がヘマをやらかせば、全て自分に跳ね返ってくるはずである。一先ず指導だけはちゃんとやらざるを得ない。イジメはやりたくても出来ない、これが本当のところではなかったのか・・・。
と
、実は密接な関わりがある。
意外に聞こえるかもしれないが、将軍綱吉という人、自分が大刀を抜くことすらためらうような人だった。既に武士も段々貴族化していったのである。接待の常識から言ったら、浅野は「よくもセレモニーをぶちこわしてくれたな」と綱吉から散々激怒され、打ち首にされて当然だろう。これが織田信長だったら「おのれ・・・余が直々に成敗してくれる。」と即刻大刀を抜いて首を刎ねたに違いない。しかし切腹とは武士の情けだと思えてくる。
我々はどちらかというと、死生観、宗教観はこれだけ科学が進化した時代でも、貴族に近い。その彼らはどういう死生観、宗教観を持っていたのか?
この疑問に答えるには次の問いに答えればいい。
「あなたは神になりたいか」
日本人ならば皆遠慮するだろう。日本人が言う神とは回教、キリスト教とはだいぶ違う。神は恵みと罰をくれる存在だが、その存在はアマテラスでもない。では何か?
それは怨霊である。
スタジオジブリの些か旧い作品だが、「千と千尋の神隠し」という作品がある。この作品でもヒロインの味方の山の主でもあるイノシシ(名前は忘れました、失礼)が怨念に塗れて血だらけで死のうとしている最中にヒロインは
「それはダメだよ。それじゃ祟り神になっちゃうよ。」
という言葉で癒していたのが印象的だ。宮崎さんも日本人に罰を為す存在が怨霊であることを気づいていたことを示して居る部分だと思う。現在でも怨霊なのである。
例えば、若いOLの水死体がどこかの川で発見された。死後一週間も経過していた、すると週刊誌は何と書くだろうか?
「美女の水死体が発見」
と書くだろう。しかし検死官に知り合いがいるが、彼に言わせると、本当のところ、一週間も経てば生前どんな美人さんでも死体など見られたものではないらしい。良くて水ぶくれ。下手すれば魚につつかれ、腐乱していても不思議ではないとのことだった。
昔、怨霊は高貴な存在で、無念の血の涙をのんで死んだ人達がなるとされていた。怨霊にならないようにするにはどうしたらいいのか。それはひたすら相手のメンツを立てることである。悪い言葉で言えば、宥めることだ。
実例を挙げてみたい。
▼菅原道真・・・国家反逆罪(勿論濡れ衣だ)で死罪になるところ、罪一等を減じられ、大臣降格で大宰府に流刑、その地で失意のうちに病死。死後、主犯格の藤原時平らを落雷などで呪い殺したとされ、天皇家ではおそれおののき、名誉回復させ、太政大臣の位を贈呈。
▼足利義満・・・天皇家乗っ取り目前で「病死」。死後朝廷から「太上天皇」という位を贈呈される。天皇になりたかったのだから、死後天皇と呼んであげようというところか。しかもあろうことか、義満「病死」後、当の足利家がその位を辞退しているのだ。
▼後醍醐天皇・・・吉野で南北朝統一を果たせずに崩御。死後統一を果たした足利義満は、実質北朝が正統なのに、南朝を正統とした。これも後醍醐天皇に対する鎮魂だろう。陰険な策謀家としても名高い彼ですらこうなのだ。
この当時の武士たちは本当に貴族化していたことから、本来リアリストである武士たちも貴族と同様、怨霊の存在を意識していたことは容易に想像がつく。本来赤穂浪士達は幕藩体制、武家諸法度に対する挑戦で、反逆罪に準ずる。その人達が最期は切腹を命じられているだけでなく、何と戒名まで貰っている。罪人でこのような国は日本しかない。戒名は全員、頭に「剣・・・」という言葉がつく。これも怨霊封じの意味が込められているという見方も出来る。ということは、武士はリアリストだが、そんな人達の頂点に立つ綱吉ほどの人でも怨霊を恐れていた。
但しこの歴史の影響は大きい。実は思わぬ副産物をもたらしたのだ。
何しろ違法行為を認めつつ、忠義の大切さを植え付けたのだから。徳川幕府は統治理論に「朱子学」を積極的に採り入れた。この学問(寧ろ宗教に近いが)で最も大切なのは「孝」だったが、これ以後、忠、義というエッセンスが入り、中国、韓国の「朱子学」とは似ても似つかなくなっていく。結果、討幕の理論武装にもつながっていったのである。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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