御覧の通り、今日はブログで手話会失敗の件も書き始めた。気が付いたが、トラブルや挫折の多い事には、むしろ、社会に問いかけられる問題が隠されているのではないか。逆に、伊藤まつさんと僕の関係みたいにスムースに進み、完結したような事は社会に問う要素が少ない気がします。「蓮は泥中から出て、泥から咲く」とも言われていますし。
もっと掘り起こせば、深い問題が出るのかもしれない。
自分の歴史を変える事も下らないかもしれないが、もし、78年の時点で耳の聞えないK君に、(手が不自由だから、手話以外の方法で)意志疎通していたら、僕の表現力や自己伝達力は飛躍的に伸び、ITなくても、社会の海を魚みたいに泳げたと推察もしている。それも大事なことだから。それをフェイスブックを使って、今しているわけだ。
もう一つ言うと、K君には手や目が不自由で手話ができない人の事も逆に考えてもらわないといけなかったと。盲人も全然手話はできないわけだし。その件もやがてはブログに書くが。K君にもおかしな面があったわけです。再会したら、「手話ができない人たちの事も考えてくれ」と言いますね。特に、聴覚障碍者と盲人の関係は難しいものがありますが、解決策は必ずあるわけだし。
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