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2016年08月11日22:47

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歴史雑談・象徴天皇を創ったのは誰なのか

■生前退位

天皇陛下が生前退位についてお言葉を述べられた。8月6日は広島の原爆の日、7日は大部分の国民の安息日の日曜日、9日は長崎の原爆の日、ということもあり、8日にその日は選ばれた。

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 https://www.youtube.com/watch?v=Y10cTLhMsmM

皇室典範という点では制約があるため、婉曲な表現で、「天皇陛下のお言葉」として述べられている。
動画を見られない方の為に要約すると、象徴天皇としての天皇の在り方を維持できないこと、昭和天皇から今の陛下に移行する際、国民に多大な負担を強いた事について、ご懸念をお持ちだった。

 そもそも皇室典範が出来たのは、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町初期と皇室内にドロドロとした内粉が多いから法律でチェック&バランスをつくろうという目論見があるのは分かる。しかし時代は変わった。当時は庶民に皇室の内紛など分かるはずもないが、今やインターネットの恩恵で、全世界、凡そ関係国ではない国民までもが、仮にそのようなことが起きようものなら、即行で伝わってしまう時代だ。

 以前に比べて情報公開が格段に速い為、嘗てのような内粉は起きようがない。そうした時代背景も念頭に置いた上でのお言葉と考えられる。

 今の天皇陛下は東日本大震災後に発生した福島第一原発事故で電力不足から計画停電を実施した際、皇居の住所、東京都千代田区千代田1の1は計画停電が起きなかったが、第一グループに合わせて自主停電を行なっていた。その後は費用の掛かる土葬ではなく、火葬にして欲しいと述べられた。国民が不景気で喘いでいる時に費用の掛かる葬儀などとんでもないからだという。

 実質賃金が絶賛下落中なのに、株価が上がっているから景気は拡大していると世迷事を公言するどこかの国の首相とはどえらい違いである。

 そして今回の「お言葉」である。

 どこまでも象徴天皇として国民との距離を保とうとご尽力される陛下は畏れ多いと言わざるを得ない。

 ■大野心家の暗躍

 今の象徴天皇という制度は一体誰が造ったのかいうのが今回のテーマである。古代、天皇は自ら剣を取って戦ったこともあった。壬申の乱では弘文天皇も戦っている。しかしその後、天皇がみずから戦陣に出るということは殆どしていない。時代が下って鎌倉初期の承久の乱の折も、後鳥羽上皇が戦陣に赴いたという話は無い。例外は後醍醐天皇くらいである。

 ということは、どうやら飛鳥から奈良に掛けて象徴天皇の雛型が出来て来たようだ。

 壬申の乱で大海人皇子が勝利し、大津京は灰燼に帰した。彼は即位すると奈良の飛鳥浄御原宮を造営した。古代の日本の都とは随分お金が掛かるようだ。殆どが一代ないし、後継者の代を入れても二代がいいところである。この宮もまた、彼と彼の妻・持統天皇の二代で実質おしまいである。

 この壬申の乱では、敵方の弘文天皇が自刃したこともあり、処罰は至って寛大なものだった。近江朝廷軍の中心メンバーの1人、中臣連金が死罪になったものの、彼の子孫は流罪で済んでいる。また、最高位だった蘇我赤兄も流罪だった。勝てば官軍なのはこの時代も同じことだが、謀反人の処罰としては、類を見ないほど寛大な措置だった。

 しかし、一方で近江朝廷側でもなかったのに、不当に冷遇された者がいた。

 藤原鎌足の息子・史(ふひと、後の不比等)である。

 彼は壬申の乱の折、どちらにも与せず、京都の山科(京都市山科区)に潜んでいたらしい。彼の一門の連金が処刑されたこと、その子孫が流罪になったこともあろうが、何と言っても彼の父・鎌足が天智天皇の補佐役だったことも影響しているだろう。決して鎌足と大海人皇子が不仲だった訳ではないが、敵方の父を補佐した大臣の息子、とあれば、重用しにくかったことは想像がつく。

 不比等が重用され始めたのは天武天皇の崩御後、彼の妻の持統天皇の代からだった。この女帝は血統に異様なほどの拘りを見せた。彼女が生んだ草壁皇子に後を継がせたくて他の皇子を排斥した。大津皇子は人望が厚かったが、彼がいる限り草壁皇子は即位出来ない。そこで天武天皇が崩御した朱鳥元(686)年の9月の翌月に謀反の罪で処刑されている。彼の共謀者と見做された30名余りのうち、処刑:ゼロ、流刑:2人、その他:赦免、後に政界に復帰したものすらいる。大津謀反がでっちあげだったことはこの措置からも明らかだ。大逆罪は一族郎党全て皆殺しが普通なのに、処刑された者がゼロだったからである。

 但しいきなり草壁を即位させるのは露骨すぎると考えたのか、彼女は草壁皇子がしかるべき歳になるまで、天皇にいることにした。しかし、期待していた草壁皇子も3年後に病死してしまった。こうなると、彼女の直系は軽皇子(後の文武天皇)しかいない。この皇子が成長するまで、天皇に居座った。

 彼女がここまで血統に執着したことを不比等は見逃さなかった。
 

 ■持統朝から象徴天皇化が進む

 
 持統女帝がここまで血統に拘った理由は分からないが、或る程度肉薄することは出来る。先ず、彼女の夫の天武天皇という人物、実は彼の実績をたたえた側面が大きい『日本書紀』ですら、彼の生年は沈黙している。考えてみればおかしなことである。

 「ある人の伝記を書きました。しかし、生年は分かりませんでした。」

 こんなことは確かにあり得ない。しかしながら、生年は書かれていない。他に史料は無いのだろうか?時代が下って、『扶桑略記』には彼の没年に関する記述が出て来る。

朱鳥元(686)年、天武天皇崩御、御年65

である。昔の歳の数え方はゼロ歳も入れる為、満64歳で崩御されたことになる。『扶桑略記』が正しいとなるとおかしなことが出て来る。天武天皇は622年生まれ、ということになるのだ。我々は歴史の授業で、天智天皇は天武天皇の兄と教わった。天智天皇はどの書物を見ても626年生まれとなっている。ということは天武天皇が兄になってしまうのだ。

 日本の歴史学会の見解は

 「『扶桑略記』の著者は56歳を65歳と書き間違えたのだ。」

としている。しかし学会は同著で同じような書き間違いを全く指摘していない。それがあるならば、説得力があるが、書き間違いだと指摘する根拠はどこにあるのだろう?
 
学会は東大卒であれば、何でも通る悪弊がある。寧ろなぜ天武天皇が自分の生年を隠蔽しなければならなかったのか、このような苦しい言い訳をせず、そちらを追及すべきではないだろうか?

この時代の皇位継承権は息子よりも実は兄弟の方が順位は上だったことを忘れてはならない。嘗て天武天皇は大海人皇子の時代、天智から「皇太弟」と呼ばれていたのである。それがいつしか弟⇒年下と解釈されるようになってしまったのかもしれない。

ではなぜ天武の妻の持統はあそこまで血筋に拘ったのか?

意外に聞こえるかもしれないが、天武が皇子の時代、皇太弟と呼ばれていたとしても、正当な皇位継承権は無かったからではないか?

とはいうものの、彼は実力者である。天智天皇から数人、妻として迎えている。持統もその1人だ。

天武天皇の父は分からない。母親は皇極天皇である。天武と天智は腹違いの兄弟だった、しかも天武の父親は皇族ではなかった可能性が高い。

 父親が誰かも凡そ肉薄することは出来る。彼は即位後、一回も遣唐使を派遣していない。しかしその一方で、毎年のように新羅には使節を派遣しているのだ。彼の父は新羅の高官か、新羅と外交折衝を行なっていた日本の高官の可能性が高い。でなければ、あれほど新羅と友好関係を大事にはしないはずだ。確かに高官ではあるが、皇族ではない。

 だから天智天皇より年上と書く訳にはいかず、持統天皇も正当な皇位継承権が無い天武の血は出来るだけ入れたくないと考えたのだろう。

 不比等はこのやり手の女帝とある取引を暗黙に行なったと考えられる。それは自分の血統を保証する代わりに、藤原氏の独裁(この時点では確立した訳ではないが)を認めるという取引である。

 実際、大宝元(701)年に彼が中心になって、時の超大国・唐に見習って律令を完成させた。大宝律令である。しかし単なるパクリではない。唐の律令では、中書省、尚書省、門下省が独立し、皇帝の絶対的権力を支えていた。不比等の目論んだのは太政官に権限を集中させ、その地位を不比等一家が握るということだった。

 女帝としては政治の実権を不比等に任せる方がラクだと考えたに違いない。

 それでいて、不比等は生涯、正二位・右大臣に留まり、目立たないようにした。彼はこれほどの実力者でありながら、『万葉集』にすら、全く歌を残していない。『懐風藻』に自分自身の漢詩を5首ほど残している。そのうちのひとつは

 済々周行の士、穆穆我が朝の人、徳に感(かま)けて天沢に遊び、和を飲みて聖塵をおもふ

 和訳も難解なところは殆ど無い。

 「周の国の王室は人が多く、威儀が盛んだが、我が国の王朝は人も麗しく、威儀が盛んである。天皇の徳に感じて、その恩沢に遊び、慈しみの酒を汲んで天皇の恵みを有難く思う。」

 至って平凡な漢詩だ。実績を隠蔽したい不比等にとって、詩も平凡な方が都合は良い。不比等がそう考えたとしたら、何と言う深謀遠慮であろうか。日本の象徴天皇の基礎を創ったのは不比等。彼の深謀遠慮によって、我々は気がつかなかったのが本当のところかもしれない。
 
 最後までお読み頂き、ありがとうございました。

 

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