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2016年08月04日22:52

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伊達政宗の言の葉

「くもりなき 心の月をさきたてて 浮世の闇を照らしてぞ行く」(伊達政宗、東北の戦国武将)

 
 この言の葉、言われなければ辞世(最期の言葉)とは思えないだろう。伊達政宗は戦国武将の中でもとりわけ長寿。70歳で亡くなるが、バイタリティに満ちている。くもりなき心の月であの世に行っても浮世の闇を照らして行こうぞとは何というタフな一面か。

 彼の人生を見れば確かにタフさに満ちている。

 ただし幼い時から強かった訳ではなく、寧ろ片目を疱瘡で失い、性格は引っ込み思案なだけでなく、卑下してばかりだった。更に母親は政宗よりも弟ばかり愛していたこともあった。しかし守役の僧が

 「強くなりたければ、逃げるな。醜いのはそんなそなたの弱い心じゃ。」

 と発破を掛け、政宗を勇気づける。肉親の情が薄い政宗だったが、たった1人、父・輝宗だけは政宗に期待していた。ところがこの輝宗も畠山氏との間に人質に取られてしまう。政宗は涙を飲んで畠山軍もろとも討ち滅ぼしてしまった。父の弔い合戦では畠山、佐竹、芦名連合軍と戦って撃破し、東北の覇権を決定的なものとした。

 根拠地を米沢から二本松に移すが、折しも豊臣秀吉が小田原北条氏攻めに
来るや、政宗にも参陣せよと命が下る。政宗はこの時弟に毒殺され掛かり、
弟を斬った。これが元で遅れ、秀吉を激怒させた。

 政宗は恭順の意を示すため、全軍死装束を纏わせて小田原の街を練り歩いたという。流石に秀吉も政宗のこの行為に意表を衝かれ、許した。

 とはいえそれでも失ったものは大きい。直轄地が72万石あったが、会津を取りあげられ、58万石に削られてしまった。ここで根拠地を仙台に移さざるを得なくなった。しかし現代の仙台の繁栄ぶりは政宗のこの時の移転に依るところが大きいはずである。日本の場合戦国武将が県都の基礎を造った例は少なくないのである。仙台もそうだった。政宗の場合、

 米沢⇒二本松⇒会津⇒仙台

 と移動している。

 秀吉死後、政宗には次の天下は家康、と見切っていたため、秀吉の遺言を無視して、徳川家と早くから婚姻関係になる。石田三成と気脈を通じていた上杉景勝の挙兵に最上義光らと共に討伐に応じた。家康は上杉打倒の折には49万石の加増を約束しようと言った。実現すれば百万石の大大名だ。関ヶ原の戦いと一口に言うが、現実には全国で戦いが繰り広げられていた。しかし「本戦」の関ヶ原で蹴りがついてしまうと、この夢は幻となった。家康は2万石の加増しかしてくれなかった。

 政宗の人生を見てみると、単に戦いに強かっただけではない。豊臣から徳川への移り変わりを実に巧みに乗り切っていた。

 辞世の句は切羽詰まった状況なだけにその人の本音や本性が出やすい。政宗は戦国武将の最期としては畳の上で亡くなったのだから、心安らかなものだった方だろうが、大変な度胸とバイタリティを感じずにはいられない。

 なお、昨日、8月3日は伊達政宗の誕生日でもある。

 最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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