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2016年05月22日22:39

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1930年は大昔なのか

 朝、ラズリと散歩中に「生きているって愉しいねぇ」などとわざとらしく話し掛けたら、それから半日近く、自己暗示にでもかかったのか、満更ウソでもないような気になった。快晴だったことも手伝った。
 今日も土を触りたくてトウガラシのポット苗を本植えした。
 それから、鉛筆を削った。2B、3Bの2本と、半分紺色半分赤色の昔からある色鉛筆。
 詩人が愛読した翻訳書には、メモ書きやアンダーラインが多数あるのだが、彼は何度も何度も読み返していて、鉛筆書きあり、万年筆あり、赤の鉛筆あり、墨書ありで、出来るだけ忠実に昨日届いた翻訳書に書き写すことにする。せっかく手に入れることが出来た同じ本だもの!
 が、いざ始めると、美本だと言えど昭和5年の古い本だ。線を引くと、紙が破れそうになる。2度3度、紙がほつれたところで、鉛筆の先をある程度丸くする必要性を感じ、メモ用紙に殴り書きをしてこれなら紙に優しいという状態にした。こういうつまらない作業というのはどうして面白いのだろう? たぶん、人に対する気遣いとか、犬に対する接し方でも、その一歩手前のところでどうでもいいような作業があって、そこの部分は好きなのである。
 この半年、明治大正と昭和一桁の本を読んでいると、しばしば自分の時代感覚がわからなくなる。明治神宮は初詣客が日本で最も多い神社だが、1920年の建立で、大昔でもなんでもない。歴史的には近代でさえない。昭和5年=1930年の明治神宮はまだひょろっとした木があるだけの原っぱみたいなもので、いまのうっそうとした森とは似ても似つかない風景だったが、他方、1970年代では確実に由緒正しき初詣の神社だった。1930年って遙か昔なんだろうか、ちょっと前の昔なのだろうか?
 19世紀の欧米ではまだ資本主義が未成熟にもかかわらず、労働者の搾取や人間疎外といったテーマで語られる小説や論文や哲学が山ほどあって、語句の一部を直したらいま出版しても違和感がない。社会の歪みや問題点は200年が経ってもほぼ同じで、果たして旧時代なのか近代なのか、自分の中ではどうも掴みづらい。
 仮の結論。こんな抽象的な想念をあまり持たないことだ(笑)。
 昼に、鎌倉市民のお祭り的イベント、海浜公園で一日開催の「鎌人いち場」に行ってみた。露天やフリマがいっぱいで、家族連れで溢れ返っている。平年ならもう少し涼しいはずだが、今日は真夏に近く、20分ほどで退散。知り合いに会わなかったのは初めてかもしれない。人出は多いんだけどなぁ。
 夕方、ネットで1時間半ほど目的があって情報収集をしていた。
 と、大阪の友人からショートメッセージが届いた。
「おひさしぶり。お変わりないかしら? もうほとんど会話ゼロの日々」(原文ママ)
 なんだか女の子みたいな内容だが、実際は63歳の男だ。
 返信を待っている気配がありありだったので、立て続けに4通、近況報告がてらのSMSを出しておいた。日曜日の夕暮れとして悪くない。
 
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