拝啓 新井千裕様
不意打ちのように『あおむけで走る馬』が目の前を走り過ぎようとして、背表紙に新井千裕という文字が見えた気がしたので、あわてて手を伸ばしました。手に取ってみたら、錯覚ではありませんでした。わたくし事ですが最近、過去に読んだ著者の名前と似た俳優の名前を見た途端、逆にその作家の正確な名前はなんだっけ？ と記憶がいったんイレーズされてあやふやになる、という経験を二度三度したものですから、新井千裕って私が熱狂して愛読したあの新井さんに間違いないだろうな、と恐る恐るカバーの袖に印刷されたプロフィールを読みました。間違いなかったです、私より1つ年上、早稲田卒、『復活祭のためのレクイエム』で群像新人賞……。受賞が86年ということは、本年奇しくもデビュー30周年なのですね、おめでとうございます。
星空を長い時間眺める根気がなくなったのは30歳代、ファンタジーのような非現実を描く作品が苦手になったのは50歳を超えたあたりからです。夢見る能力が失せた時期と完全に重なります。その頃から新井さんの作品を読まなくなったのですが、ウィキペディアで調べたら97年に『逆さ馬のメリーゴーラウンド』を出されて以降、新井さんもほぼ休筆されています。だから読まなくなったではなく、読む作品がなくなったというほうが正確なのです。
昨日の夜、『あおむけで走る馬』を読み始めました。ファンタジーはおろか、「すばる賞」系純文学＝舞台設定が観念的で登場人物が非現実的でストーリーがないような小説も、読むのが苦痛になってきたので、正直なところ、かつてと同じような熱狂が出来るだろうか、と不安でした。新井さんのことですから、読者を煙に巻く目的で仮想空間へ連れて行き、ナンセンスな禅問答を仕掛けたり無理難題を押しつけるようなロジックを強いたりするのではないか？ それを自分は果たして面白がれるだろうか？
10ページほど読んだところで、既視感を覚えました。それで奥付の前のページをめくってみたら、『逆さ馬のメリーゴーランド』を大幅に加筆した、というか日常にスマホが当たり前のようにある2014年を舞台に再設定していたのですね。これはこれはお見それいたしました。新井さんの小説は非現実だ、と決め込んでいたのに、リアリティに引き込まれてました。どこをどう直したのか、本をつきあわせたいです。
それはともかく、私はページを繰るのももどかしいほど、一気に半分を読んだのです。そして夜の10時半になったので、残りは翌日（今日です）読むことにしたのです。あと1時間経ったあたりで私は睡眠薬を服用することが多いので、そのせいで記憶力が3割くらい落ちる現象がときどきあるのです。
新井さんは忘れていらっしゃると思いますが、私の手許には新井さんが文芸誌に発表された短編があります。一度お手紙を差し上げてお会いし、会ってから何日か過ぎた頃に送ってくださった雑誌コピーです。
長らく短編は机の引き出しに入れてました。通常は2カ月に1度の割で原稿や企画書などの印刷物は足元に置いている段ボール箱かロッカーに移すのですが、新井さんの短編小説は自分の近くにずっと置いておきたかったのです。
それから10年ほどが経って私は会社を早期退職しました。
が、まだ短編の束は持ってます。辞める時、段ボール箱3つくらいに私物を入れて自宅に送ったのですが、その中に入っているのです。開けて過去をなつかしむ、という趣味はないのに捨てないという心境は、新井さんの小説に出て来る人たちに通じる不可思議さにも繋がります。
今日、残り半分も一気読みしました。過去の自分にタイムスリップする面白さもありましたし、新井さんの世界観が変わらずに好ましいことも確認出来ました。『逆さ馬のメリーゴーラウンド』は九分九厘忘れていたので、初めて読む小説と同じ愉しさやもどかしさがありました。ひょっとして、改題＋加筆というのは新井さんと担当編集者のジョークであって、新作なのではありませんか？ この作品が1997年に書かれた、というのがにわかに信じられません。いまでこそ「仮想現実」は現実以上に現実的ですが、97年にはまだネットなんてほぼないに等しいですから。
自分と他者の距離、自分と社会との関わり、というのは、高校3年の数学�靴能�う確率分布よりも私にとっては難しい問題です。無垢でいることの困難さを茶化さずに描くという小説は、新井さんの前にも後にもほとんどいないというように思います。
この日記を新井さんが読む確率はゼロ、コンマ1パーセントにも満たないでしょうから、書いてみました。新井さんの愛読者がたどり着く可能性なら1パーセントくらいあるかもしれません。
小説の真なる面白さを味わえたことに感謝するばかりです。他に挨拶の言葉は見つかりません。
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