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2016年04月03日05:55

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デルフト焼きの牛



アムステルダム国立美術館のオランダ陶磁器を眺めている時に眼についたものがこの牛だ。 タイルや壺、皿の類で典型的なデルフト焼きというのは白地に紺の模様が入ったものだが中国や日本の透明度のあるものに比べてミルクのかかったようなボテッとした透明度のない平らな感じのするのが特徴だ。 自分は東洋のものに慣れているので透明度のないものには惹かれない。 けれどそれは素地のことであって模様、意匠となると話は別になる。 アムステルダム国立美術館の博物部門の常設展示にはオランダの歴史を物で辿れるという楽しみがあり服装史の展覧会の後16世紀以降の銃器に続いてオランダ陶磁器の部門が並ぶ階で様々なものを観ていて眼を惹かれたのがこの牛だ。

オランダ絵画ではパウルス・ポッターの「雄牛(1647年)」がそのころの牛を見せるのだがここでの形は概ね似ているもののポッターの牛が現在の牛とあまり変わらないのに比べ本作の角が外に広がる形はあまり見ないものでこれならむしろヒンズー教の牛に見えなくもないと思ったりもする。 その他はこれと同様日頃郊外のあちこちで眺めるホルスタイン種やフリース種といった乳牛に似ていて黒や茶色の肉牛とは肉の付き方に多少の違いはあるように見えるものの概ね乳牛のようだ。 

ここに来る前に観た服装・モードの展覧会の感想で芸術・美術・工芸に触れて書いた。 そこでは芸術と工藝の違いを近代で用いられ始めた芸術という考え方を通常日常生活で使われるものを通常以上の技術・意匠を加え「美しいもの」に作る工藝と比較して考えようとしていたように思う。 その続きでここに来てこの牛は芸術品かという想いに捉われ、ああ工芸品ではあるので美術品ではあるだろう、けれどもいくら何でもこれはキッチュだから「芸術」ではない、と思い始めていたことだ。 

それを「キッチュ」というなら現代美術では元来の「キッチュ」を敢えて持ってきて最先端の芸術であると展示されるものもある。 60年・70年代からのポップ・アートがあちこちで散見されるのがその例なのだからそうなるとこんなキッチュな16世紀の工芸品はそのキッチュさにおいて「芸術」なのかとも思ってみる。  コンセプチャル・アートなどというものには70年代に初めて接して学ぶことが多かった。  そこでは「芸術」とは何かを巡る具体化としての「もの」の提示を通じて「善」なるものに辿る営為だと理解したように思うのだが分からないことも多かった。 説明されてもその説明が分からなかったり分かっても納得しがたかったりする。 「キッチュ」ならまだ理解できる。 なにかが「まともな」美術から外れていたり過剰であったり「安っぽ」かったりするものなのだろうがその概念をひっくり返したり別の角度からみて価値を見出すということもする現代美術と通じるものがあってそれによって従来の美術・芸術のコンセプトが揺すぶられる。

ここでの牛の青はデルフトのものである。 けれどその彩色様式はオランダのものではない。 当時中国陶磁が中国の事情で手に入らないから日本の伊万里に発注し中国風のものが日本の伊万里の意匠となってここに写されている。 ぼやっと見ていれば伊万里ではあるけれど細かく視ると日本製ではなくオランダ・デルフトで伊万里に似せて彩色していて例えば花弁や葉の筋に伊万里の繊細さはなくこれでデルフトのものだとはっきり分かる。 それはデルフトの中国風の写しでも同様だ・ だから日頃骨董発掘番組でみる日本・中国風のオランダ製陶磁器にも同様の特色がみられる。

昔大阪南部の自分が育った農家の床の間に両手で持ち上げるとずっしり重い横たわる牛の銅の置物があった。 彩色もなにもないミルクチョコレートかストレートのチョコレート色の光沢のある金属の塊だった。 日頃牛小屋で見慣れていた形とその銅色を楽しめたのだが例えば祖父がこの牛をあの床の間に置いたかどうか想像するとそれは疑わしい。 模様は美しいにしても牛との組み合わせで頭を振ったのではないかと想像する。 けれどこれは16世紀オランダで工藝美術品として扱われていたのだからそこでは美観の違いというものがあるのだろう。 けれど現代の日本のデパートのギャラリーでは何の説明もなく人々の眼を惹くような気がする。  ただ、アンティークでもなく京焼の複製に100万弱という値段がついていればどうだろうか。

酪農国のオランダではこの20年ほど時々あちこちに硬化樹脂に様々な模様・意匠が施された等身大の牛が現れることがあるから何でもありの今から考えるとこの牛もどうということはないのだが自分にはこのキッチュさに笑ってしまう。 やはり牛というのは善光寺詣りの牛か禅画の牛を探しての「十牛図」になるのか、けれど十牛図の牛は乳牛ではなく東南アジアの水田で草取りの道具を曳く水牛のようでもあるのだが、、、、。  これでは芸術談義のほうに舵を引っ張って行くことはできなさそうでのっぺらな野原にのんびりと草を食むこの牛を残して我々は去ることになるのではないか。  そしてこれは美術工芸品であることには間違いない。
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