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2016年02月04日06:54

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ビッグ・バンドのこと


先日自分の音楽遍歴を探っていて、小学校の五年のときに新たに出来た鼓笛隊の小太鼓になったのがその始まりだったと思った。 そしてリズムに興味を持っていたら当時白黒テレビで レイ・マッキンレー率いるグレン・ミラー楽団の演奏を一時間ばかり見て中央正面の高いところで叩くドラマーに惹かれた。 ドラムがらみだ。 その後高校時代に友人の兄が聴いていたマックス・ローチの新譜「限りなきドラム Drums Unlimited(1966)」に接してドラムと言う楽器から出る音のうねりに底深さに感動したけれどそれからジャズに行きつくまではまだ間がある。 

時はグループサウンズであってカッコいいエレキ・ギターでなければならず、けれど中学校のブラスバンドではクラリネットをやりたかったけれど選考で歯並びを見られ駄目だ、お前はこれだとチューバを与えられた。 ブッバブッバと単調で面白くなく2年の時に指揮をやれと棒を渡された。 適当に空気を掻き回していればいいといわれただけでそうやっていたのだが何だか損をしているような感じがした。 自分で楽器を鳴らす愉しみ、練習を通じて技術を付ける、ということが欠落していたからだ。 指揮のことを何にも知らない子供の思うことだ。 クラシックのマエストロの仕事を思えばそれは一軍の指揮官なのだ。 自分の持てる材料から最高のものを引き出す、けれどそれは自分の頭の中にある理想の音でなければならない、というものだ。 そのためにはどうするか、なにをするか、という仕事が指揮者なのだろうと思う。 大学生の時何年かジャズ喫茶でアルバイトをしていた。 そこはドラマー、アート・ブレーキ―が率いるバンドの名前を冠する冴えない店だったけれどその良さは他の良質のバンドと同じくそこから育って行くジャズメンたちにバンドが大きく貢献していることだ。 若いジャズメンたちの職業訓練校的役割をはたしていることは確かでそのリーダーの創る音楽を学んで継承していくことにもなっている。 

ジャズ喫茶で7000枚ほどあるコレクションから好き勝手に皿廻しをしていて当時流行り始めていたフュージョンは鳴らさなかったものの古いスウィング・ジャズからヴォーカル・ジャズ、バップ、ハードバップ、ポスト・バップにニュージャズ、フリージャズ、インプロヴィゼーションまでかけた。 ビッグ・バンドもかけたけれどそのときミンガスのバンドはビッグバンドかどうかと考えることもあった。 ミンガスのバンドではエリック・ドルフィーが好きだ。 ドルフィーが自分でバンドをやりだすときにミンガスバンドの卒業記念としてミンガスが「さよなら、ドルフィー」という曲を演っている。 エド・ブラックウェルという麻薬患者か売人かというような風貌のドラマーがいい。 

あるときコンサートが済んで客にサインをするのに頭から湯気を出して首にタオルを巻き椅子と小さな机を自分の前に引き寄せどっかと坐って掴んだ缶ビールを手にサインをするところを見たバディー・リッチにはその姿は彼の音楽そのものだと思った。 最近ではこの10年ぐらい知るオランダのドラマーが大小のバンド、オランダを代表するビッグ・バンド、オーケストラで演奏するのをテレビで見て年間200回以上大小の舞台で叩き続けるそのリズムを楽しんでいる。 

リズムは原始的なものであるだけに意識・無意識に体の奥までしみ込んでいるようだ。 それに脳の奥にも影響して意識・無意識に反応する。 多分自分にそういう風に刷り込まれたのは村のダンジリの勇壮なパターンと隣村などの早いものではなく眠いほどゆっくりと続く自分の村の盆踊りの太鼓だっただろうか。 後年そこにシンコペーションがあってそれが脳に残りジャズのリズムに絡みついたのだろうと思うようになった。 だからロックからジャズにのめり込み始めたきっかけになったのがマイルスの「ジャック・ジョンソン」だったのだろうと思う。 マイルスではファンクを知った。

ジャズ喫茶で時々当時の新譜ケニー・クラ―クとフランシー・ボランドの双頭バンドで「More Smiles (1969)」を聴いていた。 それは殆どがアメリカの音楽の中で幾分違った音色・響きを出していたからだろうし味のある落ち着いた興奮というものを味わえるからだったのだろうか。 そうしているうちに最近ソシアル・メディアの一つに次のように書き入れた。

    「上の書き込みから早7年、この頃はとんとライブに行くことも少なくなり自宅のキッチンや屋根裏部屋でパソコンの小さなスピーカーから流れて来るものを聴いて過ごしていますが Spoty をやりだしてから好きな時に好きな音楽が好きなだけ聴けるのをいいことに、ものを書き聴くということを繰り返しています。 それで本当に久しぶりに、40年ぶりに ケニー・クラーク、フランシー・ボランの双頭バンドが聴きたくて 「All Blues(1971)」を聴きました。 「More Blues(1969)」 は当時LPで買い、20年ほどまえからはCDで聴いていますが当時ジャズ喫茶で聴いた「オール・ブルース」もMPS盤の録音の良さに助けられいい響きですね。 アメリカにないヨーロッパの響きです。 オーケストレーションが誠に品よく、今でも古さが微塵もなく、いつまでもビッグ・バンドのお手本になるものだと思います。 本当によくスウィングします。 そんなことを書いているとパソコンから自動的に Spotify のその「More Smiles」 が流れてきました。 こちらのほうは聴き慣れた曲が多く興奮しながらゆったりとそのリズムに乗って聴くというビッグバンドの愉しみが味わえます。」

という具合だ。

学生時代に写真部の資金集めに会場を借りてダンスパーティーをクラブが主催し、そこでは友人のバンドが当時流行っていたロックのカバーを演じるのに合わせ体を動かしたし、また、友人たちを誘い合わせて他のダンパ(ダンス・パーティー)にも行った。  けれど当時はロックが主でエレキギターでゴーゴーを踊った。 サタデーナイトフィーバーはまだだったから昔のツイストからゴーゴー、ジルバなどで女の子たちとは面と向かって踊ることはあっても手をつないだりすることも少なく、手をつなぐというのは高校のフォークダンスでほぼ¥終わっていた。 ところがそんなダンパであっても終わりは「ほぼ出来ている」カップルたちが抱き合ってゆったりとチークダンスまがいのことをするような曲がかかるからそうなると殆どの者は会場の周りに引いてそんなカップルたちを羨ましそうに眺めている風だった。 自分もその一人だったのだがあるとき誰かが簡単なステップを教えてくれて寮や下宿でむさくるしい男二人が組んで練習をするようなこともあり、それを生かす機会を探してもいた。 当然ダンパはあちこちであるのだが肝心の女の子がいないからダンスが出来ても宝の持ち腐れだった。 ジャズ浸りになっている時にはビッグバンドを聴くことはあってもダンスにはあまり想いが行かないもののそれでもゆったりとしたステップをしゃれて演奏するバンドには年を経るにしたがって注意が行く。 40にもなるとビッグバンドで踊れるようなものも探し、ジャズの洒落たアレンジで社交ダンスができるバンドとして今更ながら思いにあがってきたのがカウント・ベイシーバンドだった。 フレディー・グリーンのカットギターが特徴的なサウンドは自分には理想的だと思う。 一番の贅沢はベイシー・バンドの前で御婦人と踊ることだと確信した。 生涯に一度だけ73年頃だったかベイシーのコンサートに陪席したのだがそのときツアーの荷物が別の飛行機でどこかに行ってしまい有り合わせの衣装・楽器で演るのを観た。 グリーンは自分の楽器を持っていて皆まるで楽屋に入ってそのままステージに来た格好で何人かはそれぞれの帽子を被り日頃見るようなことのないリラックスしたムードだったのだが40年以上前にはロックの会場では普通だった、会場のあちこちで踊るような人たちはいなかった。 

今これを記しているこの時間に自宅から5分ほど自転車を走らせれば行けるところにあるジャズ・カフェでオランダを代表するビッグ・バンドの専属ギタリストがトリオかカルテットのライブをやっている。 行こうかどうか逡巡していたけれど雨がひどくなってきたので止めてそのビッグ・バンドのCDコレクションを spotify から引き出して聴いている。 そして彼から時々ビッグ・バンド維持の難しさを聞かされるのだがアンサンブルの妙とその音の厚みに接するとさもありなんと納得するところが多い。  
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