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2015年12月25日21:19

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風呂吹をくふや蕪村の像の前(子規)

 昨日の深夜、毎年恒例となった小田和正のライブ「クリスマスの約束」(TBS系)を観た。2001年から始まった同テレビライブはウィキペディアにその詳細が載っているのでここでは書かないが(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%B4%84%E6%9D%9F)、小田の音楽に対する真摯な姿勢を毎年知らされることが私には救いになっている。ゲストを小田自身が決めて夏あたりから打ち合わせを始め、たった一曲の共演のためだけに何十時間も話し合いや練習を重ねて歌を作り込んで行く姿を見ていると、普段からラクをしたいという易きな自分を恥じいるのだった。つんく♂に好感を持つのも同じような理由からで、彼は音入れから編集まで自分が納得するまでスタジオに籠もって最後までやり遂げる。ときどき対比される秋元某とは人間の出来が違う。それはモー娘。とAKBの音楽性の差によく表れているように思う。努力という言葉は才能を最大限に伸ばすことを善とする薄っぺらさが感じられて好まないのだが、好きな対象に対して最大限に誠実でありたいというように捉え直すと、不断の努力はもっとも尊いことである、と個人的に思う。
 この夏の終わり頃、安保法案がまとめて可決されたあたりから、だんだんと政治的発言が多い作家やブロガーのTwitterを読むのがイヤになってきた。私と軸が同じようなかたを選んでお気に入りに登録しているので、当然、安陪やネトウヨらのアンチ・ヒューマンな動きや言動が俎上にのぼる。読むと、腸が煮えくりかえることもあれば、無常観を覚えることもある、で、決まって自民なりネトウヨらを心底軽蔑し、その場を去る。この薄っぺらな条件反射を繰り返す自分自身に対してもイヤになることがたびたびあって、どう自分の心を改造していったらいいものか、深く悩んでいる。
 今朝もマイミクの作家さん日記を読んで、落ち込みを伴う無常感を抱いた。

<(前略)フェイスブック上でつい最近定年退職した元・某大学教授のF氏とやり取りをしたが、F氏によると、
『1990年代から保守的な学生が目立ち始めてきたのを覚えています。ところが、最近では保守的な学生にしか出会わない。真面目で正義感が強い優等生でも、気の弱そうな消極的な女子でも、日本政府をちょっとでも批判すると目を向いて怒ります』
『今の若い世代は基本的には「体制派」で、「権力批判は反愛国的行為である」という考え方です。(中略)だから基本的には反民主・親自民という立場です。今の世代にとっては民主党すら「アカ」で「隠れ共産党」です。で、理屈抜きに彼らには「左」や「共産」は「邪悪」なのです。それを理解しなければなりません』
 なのだだそうで……。F氏の大学は、リベラルな校風らしいのだが、そんな大学で上記のような有様だというのは、実に恐ろしいというか、学生が本当にバカになった証拠ではないか?
 この件、ものすごく心に残って、やばいなあ、と心の底から思う。
 こんな世代が主流になれば、ほぼ万年与党である自民党はやりやすいに違いない。野党はアカで邪悪なんだから……。>
 これを読んで衝動的にレスを付けた。
<日記を読んで心がどよーんと沈みました。
よく聞く話ではありますが、最近の大学では教員が戦争責任に言及したり人権問題を語ろうとしたところで、学生から抗議の声が上がることがしばしばあるらしいですね。思えば遠くに来たもんだ、私の学生時代と隔世の感があります。安倍一派がその潮流を確かなものにすべく日夜励んでいるわけですが、政権の体制は盤石になって竿挿すのが困難になる、と忖度すると暗澹たる気分になります。
褒められた思考ではありませんが、脱日教組的な教育内容となったことでどこまで日本の経済が発展するのか、世界各国の日本の対するリスペクトがどう上がっていくのか、10年20年後を待ちたいと思い始めました。自分の予想が正しければ、国民の3割以上が貧困層となり、介護を受けられない老人も破産寸前の老人も爆発的に増え、犯罪は増加するも刑務所の収監数に限りあるため手の施しようもなく、経済は冷え込む一方で、OPEC加盟国のなかでは断トツの最貧国に転落しています。
こういうシミュレーションを国民の過半が認識しない限り、昨今の「ニッポン・チャチャチャ」ムーブは覚めないと思ってます。もっとも、経済は上昇し、犯罪は減り、もっと豊かな感性の国になってる可能性もあるわけなので、判定は10年後20年後にしか出ないのが悔しいです。>
 まあ偽らざる心境なのだが、こんなふうに書いてストレスが発散出来るわけもない。
 そのあと、高校時代の恩師のTwitterを読む。先生は数日に一度、つぶやいておられて、大半が正岡子規の句を紹介する内容だ。
<「正岡子規の句めくり2015」 (12月24日)
 風呂吹をくふや蕪村の像の前  「風呂吹」が季語かと思ったら、「句めくり」の季語欄は「蕪村忌」でした。因みに「蕪村忌」は陰暦12月25日で、画号によって春星忌とも。友人から家庭菜園で育てた大根頂いたので、今日は風呂吹きを作ります。>
 彼女から柴田翔の『されどわれらが日々』や高野悦子の『二十歳の原点』をプレゼントされて耽読してサヨク化した私をそのままに置いといて、先生は今もまだ俳句結社の代表者として、芭蕉の研究家として、純文学を愛する読者としての日々を送られている。こういう社会とのつきあい方というか離れ方もあるんだよな、としばしば考えてしまう。まだ16歳17歳だった私は先生のひと言ひと言で思想が豆腐のように揺れ動いていたので、やや恨めしく思う。
 さて、昼を過ぎて気温がどんどんと高くなってきたので、ラズリと海まで散歩へ行くことにした。うちから直線距離は1200メートルくらいなのだが、ラズリはあっちで匂いを嗅ぎこっちで匂いを嗅ぐという風なので片道25分くらいかかる。
 海岸に行くと太陽が眩しすぎて、海面がよく見えない。
 ため息が出るほど綺麗なお姉さんがラズリに寄って来て、15分か20分くらいラズリを撫でてくれた。もちろん私と会話を交わしながら、だ。観光客のいない冬の海は実にいい。
 夜、ラズリをシャンプー。
 湯船に浸けて洗って、シャワーで洗い流して、タオルドライ。その後、バスマジックリンで浴槽を何度も洗う。この一連の作業で1時間ちょっとかかる。冬毛のラズリを抱えると湯が大量に付いているので、25キロくらいの重量になる。体を抱えながらタオルドライするのは至難の業だ。救いは私を100パーセント信頼していて暴れることがないことだ。これはラズリに限らず歴代の犬すべてが同じだった。いや、猫も3匹飼ったが、シャンプーでは嫌がる素振りを見せなかった。
 今日もまた、可でも不可でもない一日だった。
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