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2015年12月11日00:25

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40分間、滂沱の涙

 作・演出、竹内一郎の芝居『沖縄の火種(ウチナー ヌウ チケビー)』を観に池袋のシアターグリーンBOXへ行った。
 10日ほど前に前売り券をファクス予約する際、申込用紙に簡単な手紙を書き加えた。
 1カ月前に送られてきたチラシに、芝居の概要が簡単に記されていた。
 敗戦から6年ほど、沖縄で「戦果アギアー」と呼ばれる米軍基地専門の盗賊団がいた。本土ではほとんど知られていない彼ら彼女らを主人公にしたドラマを書きたい。奥野修司の『ナツコ』などのルポから『OKINAWA1947』を2009年に上演もし、今作でも「ナツコ」を登場させる予定でいたのだが彼女を虚構の中に出すことをためらい、自分の「アギアー」像だけで構成した。
 こんな内容だった。
『ナツコ』は今年の正月明けに読んだことや、昨年12月と今年1月に沖縄旅行をしたことから、つい竹内に少し語りかけたくなったのだった。
 ぼくは72年の沖縄返還で政治運動に目覚めた。まだ高校2年生なので沖縄は心理的な距離が遠くて、自分が容易に近づけない地域だった。その距離感がトラウマのように何十年と残り、昨年12月、初めて訪ねたのだった。衆院選の選挙期間中で、まさか沖縄全区で自民が敗れるとも思わず、ヤマトンチュー的世論では辺野古も既定の移管とされていた。だから辺野古へクルマを走らせながら、訪ねる意味があるのだろうかと迷ったくらいだった……。10日昼の部に観ることにしたけれど、少々照れくさいので、受付で会ったとしても声を掛けてくれるな。
 で、本日1時50分。竹内の姿がない受付で公演のパンフを受け取って入場。
 パンフを読むと、この公演を企画した昨年10月、普天間から辺野古への移設は既定路線だった……などと書かれていて、今さらながら問題意識の共通性に苦笑いせざるを得なかった。この沖縄問題に限らず、私が山頭火と放哉を読んでいると、「今回は山頭火と放哉ふたりを主人公の舞台です」という公演案内が届くというようなことがこれまでにもたびたびあって、不思議としか言い様がない。
 客席最前列の左端に三線を抱えた女性がいて、劇中、沖縄音楽は彼女が奏で、唄った。的を射た演出だ。
 動乱期の盗賊団に、沖縄人の明るさと優しさ、それらを生み出す人間力を重ね合わせて物語は悲劇へと展開していく。上演時間は1時間45分、後半の40分間はずっと泣いていた。舞台上のエイサー(祭りの踊り)を見ても泣け、三線の音に泣き、主人公らの台詞を聞いて泣き、もし許されるのであれば号泣したいくらい感情が昂ぶってしまった。
 昔むかし、竹内は観客を泣かせる芝居を得意としていた時期がある。が、ここ15年くらい、人物造詣に入れ込むあまり理屈というエッジが利いた芝居内容になっていた。だから不意を突かれた。足元をすくわれた。郷愁を伴うような若き時代の理想だとか、人間はひとのために生きるという至極真っ当な人間観を知らされたときの感応とかで、感情のたがが外れてしまったのだった。
 芝居が終わってしばらくの間、放心状態になってしまった。
 気を取り直さなければならない。この後、古くからの知り合いでよくここまで生きてこられたな、というどうしようもないフリーライターと会う約束になっていた。
 彼とビックカメラ前で待ち合わせ、近くのカフェ「プロント」へ。私は珈琲だが、彼は昼でも夜でもアルコールがないと落ち着かない体だ。 
 ここでも彼の話を聞きながら、心の中で一瞬、泣きそうになった。どうかしてる、こんなやつの気持ちを忖度しているうちに泣くなんて。
 今日みたいな日はこりごりだ。どっと疲れた。
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