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2015年10月30日12:27

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トリシュナ <未>(2011); 観た映画、Oct. ’15



トリシュナ      (2011)

原題; Trishna

イギリス映画   114分

監督: マイケル・ウィンターボトム
製作: メリッサ・パーメンター
マイケル・ウィンターボトム
製作総指揮: アンドリュー・イートン
フィル・ハント
コンプトン・ロス
シャイル・シャー
原作: トーマス・ハーディ
『テス(ダーバヴィル家のテス)』
脚本: マイケル・ウィンターボトム
撮影: マルセル・ザイスキンド
プロダクションデ
ザイン: デヴィッド・ブライアン
衣装デザイン: ニハリカ・カーン
編集: マッグス・アーノルド
音楽: 梅林茂
出演: フリーダ・ピント
リズ・アーメッド
ロシャン・セス
メータ・ヴァシシュト
ハリシュ・カンナ

イギリスの文豪トマス・ハーディの古典小説『テス(ダーバヴィル家のテス)』を原作に、舞台設定をインドに移して制作された人間ドラマ。ヒロインに「スラムドッグ$ミリオネア」のフリーダ・ピントを迎え、愛によって運命に翻弄される女性を描く。監督は「グアンタナモ、僕達が見た真実」「マイティ・ハート」のマイケル・ウィンターボトム。

インドのラジャスタンにある寺で、19歳のトリシュナとイギリスのビジネスマンであるジェイは出会った。 ジェイは父のホテルで仕事をするためにやって来ていた。 ある時、トリシュナの父が自動車事故を起こし、トリシュナはジェイの計らいによりホテルで働くことになる。 トリシュナは仕事の合間に大学にまで通わせてもらい、経営学を学び始める。 次第に愛し合うようになる二人。 が、ジェイを取り巻く環境やトリシュナの夢や伝統的な生活など、いくつものギャップが彼らを悩ませ始め…。

以上が映画データベースの記述である。 本作はイギリスBBCテレビの深夜映画としてかかったものを観た。 これを見ることにした理由は9年前にマイケル・ウィンターボトムの作、「イン ディス ワールド(2002)」を観て好感を持ったからでそのときのことを次のように記している。 

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/28590816.html

観る前の勘としては単なるロマンチックな話に終わるのではなく異世界との狭間、それぞれの世界を対照的に見せる話であって我々は単なる傍観者としてではなく何かの判断を迫られるような社会性を持ったものだろうと思ったのだったがその感じもあながち誤ったものではなかったように思う。 イギリスの中でアジア人といえば概ねインド・パキスタン系の人々を指すらしい。 だから本作での男女はインド系の男女であってもイギリス育ちの裕福な層に属する「ビジネスマン」と紹介される青年で父のホテルを継ぐことを望まれ、インドの贅沢なホテルににいて卒なくホテル管理の仕事をしていてもそれを退屈するただ人のいいおぼっちゃんであり、一方貧しくみえるけれどそれがインドの大半を占める層になるような子だくさんの家庭の娘との交流譚であってはその対称に自ずと旧式のシンデレラ物語の匂いが漂うことは免れない。 荷物を満載した父親の貨物トラックに乗っていて事故でけがをしたことで両者が出会うのだが、それまでに車というものがどのように使われているのかが紹介されていて、それにより有閑階級と貧しい階級の差が提示され、両者の背景が示されるところで映画は始まっている。 一方、娘の父は生活を支えるものとして必須の車を持っているのだからそれでは「貧困層」とは言えないだろうもののその住まいからすればどのような層に属するかは明らかである。 

人のいいおぼっちゃんである青年は見栄えで人を選ぶことが出来るほどの経済力はもっている。 もしこの娘が魅力のない娘であれば果たしてこの青年が彼女に手を差し伸べていたかどうかと思案すると、そうでなければこの話は成立していなかったのではないだろうか。 だから本作での基本構造は次のようなものになるといえるだろう。 

裕福な層の青年が「魅力のある」貧しい階級の娘に出会い、青年の善意から彼女に手を差し伸べそれがやがて恋になり、妊娠したことで身を引いた娘と青年のその後がどのように展開していくか、というところが要諦なのだ。 美醜の差は取敢えず置くとして貧富の差、伝統、文化、モラル、男女差がここに影響しているというのは圧倒的な事実である。 

青年は父親の莫大な資産を背景にイギリスで大学教育を受けまともなビジネスマンとして遜色のないライフスタイルを身に着けインドに来てからは自分のIDをイギリス人とインド人の両方に置いているのだろうことは明らかなのだが一方、子だくさんの家庭に育った娘は仕事のない田舎で「叔父」のつてを頼り工場で働くのだが父の収入が少なくなればたくさんいる弟、妹たちがすぐに学校に行けなくなるような環境であり、後ほど父が買って来たテレビがうちに届くとそれを観に近所から大挙して人が見に来るというところでもある。 アフリカやアジアで今でも見られるようにここでも娘と母親は牛糞をパンのようにこねて丸めそれを乾かして煮炊きの燃料にする場面も挿入される。 これが田舎に住む大多数の極貧でない人々の住む環境であるらしい。 

風呂や煮炊きを薪で済ますということを50年代の日本の田舎で育った自分は経験しているし家族が牛糞を手づかみで野菜の畦のあいだに肥料として間配り、帰宅してから大量の夏ミカンで汚れと匂いを取り手の荒れを防いでいたのを思い出すのでここでは驚きはないのだが自然の資源を家政に使うというのは貨幣経済の影響をすくなくする、ということでもある。 ガス、水道、電気などのエネルギーを使うとなるとそれには対価として金を支払う義務が発生し、薪や牛糞なら要らなかったものがそのエネルギーを貨幣で買うという負担が増えるのだ。 斯くして日本では60年代、70年代を通過して農家には耐久消費財が多く入り込み現金が必要になり生活は相対的に苦しくなるというような逆転した現象が現れる。 しかし日本では何としても子弟には教育が与えられ子供たちに関しては本作に見られるような女工哀史に繋がる貧しさは表層には現れなかった。 

自分が妊娠しているということが分かった時点で娘は青年が差配するホテルから黙って田舎に戻って来る。 当然堕胎が行われるのだがそこにはキリスト教的モラルには絡まれないとしても村人の眼がありそこにも居られず「叔父」のつてを頼って別の町に働きに出る。 彼女の収入が家庭のかなりの部分を支えているのだ。 そこに彼女を追って青年が尋ねてきて二人は二人だけで生活を始め蜜月を過ごすのだがあるときに娘が堕胎していたことを青年は知り「キリスト教的」モラルからなのからか自分のこどもを「殺した」彼女の、「勝手」で彼を「無視」した行動をなじりそれが彼らの関係を変えていくことになる。 この部分が本作で重要な役割を果たすことになる。 

尚、恋愛における女の妊娠がどのように明治以降の(男性)作家に影響したか日本の文学史を辿って評論した斎藤美奈子の「妊娠小説」には彼女の女性からの視点にそれまでの男性として欠落していたことの蒙を啓かれた思いがしたのだが、それは日本の状況下のことであってインドを舞台とする本作では些か趣が異なっている。 ヨーロッパのモラルと性に関して西洋的自由と一夫多妻制のインドを体現した本作のぼっちゃんには妊娠を恐れることはなく、むしろ西欧的モラルに立脚した愛おしみと自分の後継者としての「財産」であるとする。 一方、身分の違いを自覚しそんな子供を持つ娘の将来を現実的に見た家族との暗黙の合意が娘の堕胎に繋がるのであって、これには日本を含むアジア的思慮が当然として結果するのであるからここで我々はこの若き男女の思惑が悲劇的に交差するという場面に遭遇し、その後の娘を理解できない青年の爛れた生活が本作の終末に向かって行くということになる。 

もう何十年も前に女の国民性についてだれかが言っているのを聞いたことがある。 但しここでは男を挟んだ三角関係において女がどのような態度を採るかということについてである。 日本では女は一人自殺する。 韓国では女は男と心中する。 中国では女は男とその相手の女を殺す、と。 

本作では三角関係はないのだが本作に見るインドの女はどのパターンに属すのか、それとも「インドの」を外した個人としての女の行動を採るのか、それを鑑賞後に想ってみるのもあながち無駄なことではないのではなかろうか。
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