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2015年09月19日06:51

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“映画監督は本当らしい嘘をつく”と言いながら、嘘くさい嘘に終始している、高橋伴明監督「赤い玉、」(2015)。

京都の大学で映画について教えている映画監督の物語です。時田修司(奥田瑛二)は、新渡戸稲造の伝記映画の監督依頼を断って、“他人の人生ではなく自分の人生を”描こうとシナリオを描いています。大学で教鞭をとっているのですから、生徒たちの制作に対してアドバイスをしつつ。そして大学事務局の唯(不二子)と同棲している。ある日、書店で武田泰淳の「富士」を手に取った女子高校生(村上由規乃)に惹かれ、後を付けていくという展開。

この唯との同棲生活や女子高校生との出会いが、次々とシナリオに反映されていき、シナリオの中の話なのか現実の時田の話なのか分からなくなります。それが面白いといえば面白いのですが、それ以前に学生たちとの映画作りや大学生たちとの関係がつまらないと感じました。だいたい、下手な歌で「雨に唄えば」のジーン・ケリーの踊りを再現して見せてなんやねん、と思ってしまう。

「雨に唄えば」を引用したからと言って、あの映画が描いたコミカルなハリウッドとは全く無関係ですし、大学生たちが下手な歌と踊りでハリウッド・ミュージカルをまねることの意味が、単なるうれしがりであり、それに対する時田の愛情が感じられないところがいけない。生徒に対して愛情を持てない人間が生徒を教えるな。あんなシーンは10秒か15秒でいいし、基本的になしでいい。もっと学生たちの映画に対する感受性を信じなさい。

てなことを今僕が言うのは、最近「恋のプロトタイプ」や「破れタイツ」という作品に接したから。デジタル化によってフィルムという“ベルリンの壁”が取り除かれた今、既成の映画作家たちが新たな才能によって駆逐されようとしています。これは基本的には新しい時代の到来として祝うべきものではありますが、本質としては“悪化が良貨を駆逐する”という側面でもある。本来ならそれを、この映画が描くべきだったと僕は考えます。「赤い玉、」という題名の「、」は何かと聞かれて、“気分です”と答えるしかない映画作家では困る。黙ってその“気分”を納得させる説得力を持たんかい!

僕にとって問題は、女子高校生を演じた村上由規乃に全く興味が持てなかったということです。不二子が演じる唯という人物には、十分に思い入れがあるけれど。それとセリフなしの特別出演(製作だけでなく出演しないとスポンサーが許さなかったんだろうね)高橋恵子がすてきでした。あの場面は、すべて時田の“夢”ですから、だからタイミングとして十分間に合うのに追いつけないのです。でも、そういう無理した文体は要らんで。あ、ここで「旅情」を思い出しちゃダメですよ。思い出す人は、ベネチアへ行って安物のベネチアン・グラスでも買ってなさい。

僕がけっこう“実感”として見られたのは、帰宅した時田が唯のいない部屋で変な椅子に座ってゴロゴロしているところ。この感覚が全編にあふれていたら、「81/2」とまでは行かなくても、「21/2」ぐらいにはなったのにね。←「9ナイン」というのがあったから、数字の大きい方がダメな作品かも。なら「121/2」ぐらいかな。

ロケ地に使われた大学へは、僕の好きなゆいはん(横山由依)が「京都いろどり日記」で行ってました。由依と唯をこじつけるつもりはありませんが、ふと連想して僕だけの空想世界を楽しめたと思います。ついでに女子高校生は入山杏奈ぐらいにしてほしかったな。でないと唯が“出ました超美少女”と言う展開にふさわしくないと思う。マネキンと絡むシーンでは、肌の若さが感じられて唯との対比になっていたけどね。

それと、たとえば俳優志望の女子学生(写真3、土居志央梨かな)が、時田に“彼氏になってください”と言うシーンがあるのですが、これを時田の夢とすればしょぼい話だし、現実だとしたら下世話すぎる。どっちにも取れるようにというのなら、優柔不断もいい加減にしろ、と言いたいですわ。ところで若い皆さん、映画は大学で学ぶものじゃなくて、映画館で見るものだからね。DVDとかテレビで見るというのは、先の短い我々に任せておきなさいよ。

そもそも“赤い玉伝説”って、池島ゆたか監督がとっくの昔に楽しいコメディーとして完成していたよね。高橋伴明が、今それをまじめに取り組むというあたり、ちょっとなぁ。とまあ、期待しただけに残念な作品でした。
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