mixiユーザー(id:28578707)

2015年08月11日23:20

104 view

私は草花

休みに由緒あるお寺巡りすると、心癒されますね。

今日は江戸後期の曹洞宗の名僧、良寛和尚の話をしたいと思います。

『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。

死ぬ時節には死ぬがよく候

これはこれ災難をのがるる妙法にて候』

新潟三条の大地震で1500人が亡くなる大惨事があった時、71才の良寛はなんとか助かった時の言葉です。

何事にも時節というものがあります。

災難にあう時は災難にあい、死ぬ時には死ぬのがよろしいでしょう。

そのように心を定めていることが、災難を逃れるよい方法ではないでしょうか。

野に生える草花はそこを動くことができないではないか。
人に刈られたり、いかなる気象条件でも、

そこを動けないで、受け入れているではないか。


『私は草花』と人生の

対処法を教えています。

20年に及ぶ諸国行脚の後、ふるさとの新潟に帰り、国上山の麓に
五合庵をつくりました。

その意味は毎日、村村を托鉢して回り、布施の米が五合になったら庵に帰ってくるからでした。


それを聞いた藩主が歴代の菩提寺の住職にと迎えようと使者をだした。

良寛留守の間、草が生い茂っていたので刈って待っていました。

帰ってきた和尚は喜ぶどころか、憮然として

『草を刈ってしまっては虫の声が遠のくではないか』

藩主の招聘には


『焚(た)くほどは

風がもてくる

木の葉かな』

と詠んで断ったといいます。

大寺の住職にならなくても食べることくらい何とかなると。

明日のことを気にしない。

明日は明日と。


最後に良寛の辞世の句を紹介します。

『形見とて

何か残さん

春は花

夏ほととぎす

秋はもみじ葉』

「形見として何かを残しましょう。

春に美しく咲く花々

夏に美しい声で鳴くほととぎす、

秋に美しく紅葉する
もみじ、

私の命はこの美しい自然だったのです」。


自然は仏様の世界であり、そこに仏様から頂いた命をお返しするという死の心境を語ったそうです。


皆様の人生の導きとな

りますように。

合掌


1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する