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2015年07月28日20:28

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プロヴァンスを歩く (14)Rocbaron から  Carnoules まで 10km



2015年 5月 11日  10km  総計 136km



7時起床。 昨晩いろいろとこれからの計画を検討した結果、今日は計画の通り Carnoules まで行くとして、その翌日の Collobrieres までと最終日の Collobrieres から Bormes までがそれぞれ山をいくつか上下する18kmづつであるから長すぎること、それに加えてこの日差しではとても辿りつけそうもないということから明日は平地の3−4kmを歩くのをタクシーで山のふもとまで行くことで短縮し、その翌日、最終日はバスでツーロンまで行きそこでヤープと合流しそこから列車でマルセーユまで行く移動日にしたのだった。 それにより予定にはなかったプロヴァンス最終日の午後をマルセーユ見物にすることとしたのだった。 つまり今日と明日で我々の徒歩旅行が実質終わることになるということだ。 膝に故障はあるけれどこの10日ほど毎日15kmほどは歩いてきて体も日常のテンポも歩行シフトになっている今、これがあと二日で終わるとなるとなんだか奇妙な感じがする。 膝に故障が無ければそのままずっと歩いて行けそうな、昔何百キロも徒歩で巡礼した人々の気分が分かるような気がする。 歩くということはただ歩くということだけには終わらない。 今まで思ったこともなかったことが日頃の体験で浮かび上がり、また日頃一日の活動の中で肉体を主要なものとしていない生活からこういう日々を過ごすと65歳の体を持つ今、何故かまた自分が若かった時の肉体を取り戻すとまではいかないもののあの感じを思い出すことが出来るという体験をした。 それに、このように歩く経験からは単純に「持続は力なり」という言葉の意味も幾つかに思われて納得もする。

とにかくいつものようにからりと晴れた夏の朝、予報では30℃を越えるようなことを言っていたので午前中は周りに木が生え、それらの影を縫いながら登れることが幸いだった。 そんなところを1時間ほど登っていると山の上に家が二、三軒ある村とも呼べない集落に出た。 そこを抜けて足場が定まらないガレ石の坂を上り比較的なだらかでのっぺりし見通しの悪い稜線に出る。 ここでハリーの方向感覚の悪さがたたり方向を失った。 見通しが悪いことと地図がはっきりしないことが原因でもあるのだが地図に書かれている小径が見つからないことと GR9 の標識が見つからないことで迷ったのだ。 そうなると最後に標識を見たところまで戻らなければならず、さきほどのガレ場をまた降りて赤と白のストライプを確認し、そこから両側に注意しつつまたそのガレ場を登り赤と白のサインを見つけようとするけれども見つからない。 ないのだ。 切り立って見通しが良ければなんとかなるのだが中途半端な高さで見通しが利かない。 地図の等高線と実際の地形を比べてみると様子が違うような気がして道なりに降りていくと少し広いところに出た。 ここも峠のような鞍部である。 そこには緑色の水のタンクのようなものが横たわりそれはここに来るまでにいくつも見てきた山火事の場合消防隊が使う水を貯蔵してあるものなのだがそれも地図には書かれていない。 フランス南部はスペインや近辺の国と同様毎年夏には大小の山火事を経験していて現にこれを書いている今日のニュースでもプロヴァンスで山火事が起こっていると報道されていた。 

そこではいくつかに道が分かれていて我々のルートに沿うような道はそのうちの一つなのだがそれがハッキリしない。 誤ると稜線なのでまったく違うところに行ってしまい下に降りてしまえば修正するのに何十キロと迂回して、時にはバスで、バスが無ければ無理にタクシーを呼ばねばならず、タクシーもなければそこから一番近くの村で宿を探さなければならないのだがヤープが調べてこの辺りにある一軒だけの宿に予約を入れてあるのである意味では無人地区なのだから迷えない、という理由もある。 道なりに一番大きいルートを歩いて急な坂を20分ほど降りたところでもまだ標識がどこにも見えずこんなはずがないともう一度来た道を登って水のタンクのあるところまで戻った。 もうここまでで1時間以上行きつ戻りつしている。 水のタンクのところに足の悪い自分が留まり家人とヤープが別々の方向に行っては様子をみて戻ることにしたのだが家人が分け入ったところで木々の間から彼方に高圧電線が走っているのが見えそれを地図と比べてみるとどうしても論理的な結論では先ほど降りてまた戻ってきたルートが正しいようだった。 だからそこを30分歩いて標識がなければその時はそのときのこととして少々消耗しながらも歩き始めた。 両側から灌木が迫る狭い道を歩き続けていたらやっと赤と白の標識が見えたので安心するとともに先ほどまでの不安も消えた。 この旅でこのように道に迷ったのは2回目なのだけれどどちらも標識がはっきりしていなかった、もしくはなかったからこうなったのだった。 一回目はヤープが近道をしようとしたのが誤りで、結局2kmほど余計にあるく羽目になったのだが今回は単純にちゃんとした道を歩いていたのだけれど1kmほどのあいだに標識がなかった、ということと紛らわしい横道がいくつかあったことだ。 その分岐点の近くにも標識があってしかるべきなのになかった。 オランダ国内のようにこれでもかというぐらい標識があることは期待しないけれどここは少々荒ぽく怪しいところだった。 GR の枝分かれルートだからそうなのだと言われればそうかもしれない。 冬場の木々が枝だけになって見通しが良ければというものがいるかもしれないけれどもそれでも1kmの間に変化のある紛らわしい地形で標識がないというのはおかしい。  例えば1200mあたりや3000mあたりの稜線で石灰岩の両手でやっと抱えられるような石がただ積み重なって続いていて草もないただ石が重なっただけの場所では道は抽象的になり、あってないようなものでそういうところを歩くには殆ど数メートルごとに赤と白の標識が付けてありそれを辿るのだがそれでも足元と自分の足場だけを見て登ったり下りたりしていると或るときそんなルートから5mほど外れていることがある。 外れた道が厳しい斜面の5m上を通っているのに気付いてそこにたどり着くのにはかなりのエネルギーを使うものだ。 標識を見つけてからは快適なウォーキングだった。 稜線を遠くに地中海を見ながら、また地方空港に降りる小型機を上から見下ろし稜線の背丈ほどのブッシュの陰で昼食を摂った。 ハリーはヤープのように湯を沸かしてコーヒーを作ることに拘らず宿舎で入れてきた熱湯でコーヒーを飲み自分と家人は別段旨くもないティーバッグの紅茶を飲んだ。

3時ごろには山を下り宿舎のある村か町かというような中途半端なところに着いた。 それが Carnoules だった。 この旅行で様々な小さな町、村を通過したけれど幾つかはここにもし住んでいたら、というような想いを湧きあがらせるところだったけれどこの町はよっぽどのことがなければ住みたいとは思わなかった。 それは鉄道と交通量が激しい地方道が村を紡弱無人に蹂躙し歩行者の邪魔になるからだ。 ハリーが現金が要るからATMを探そうと村(町?)の役場や警察署がある中心まで一緒に歩いていったのだがそこに行くには交通量の激しい道路にほんの申し訳程度に付けてある歩道のようなところを歩いていかねばならず、斜面に位置するこの村では主な道路は全てこのようだった。 村はずれにある大きなスーパーのとなりに売店があってそこまで来た時やっと冷たいものにありつけてこういうところに来るとダイエットコークやコカ・コーラゼロを飲んでいたのだがここではそういうものがなくごく普通のクラシックコーラの一缶に35gの砂糖が入っているものでも飲めたのは激しく体を使っていたからだろう。 フランスからオランダに戻ってからは以前のようにコーラを飲む気がしなくなっていたから不思議だ。 

駅の近くに古いホテルがありそこの主人兼コックを尻にひく御かみさんに上等の部屋に案内された。 15ほどある部屋に泊り客は我々だけだった。 ダブルベッドが二つ並んでいて一つはハリー、もう一つに我々夫婦が寝るのだが一つの部屋にこういう風になるのは第一夜以来だ。 あの時はスイートでヤープとハリーはドアのない壁に隔たれたものの彼らの鼾がそばに聞こえる別の区画だったのだけれどここでは二つ並んだダブルベッドなのだ。 とはいってももうこの旅ではそんなことには誰も斟酌しない。 順番にシャワーを浴びて下の食堂に降りて夕食にした。 



前菜;大蒜とパセリで味付けしてバターで焼いた蛙、 サラダ

主菜; アントレコート、温野菜、丸ごと焼いたジャガイモ

チーズ; 山羊のチーズ、カマンベール

コーヒー

蛙は旨かった。 この旅行でアントレコートは機会があれば喰った。 普通旅行でレストランやホテルの食堂ではどちらかというと魚のメニューに眼が行きしばしば魚を喰ったけれどこの旅行では肉が喰いたかった。 体がそれを欲しているということだったのだろう。 いくつか喰ったアントレコートのなかではここのが一番ひどかった。 多分冷凍肉を戻して焼きすぎたのだろう。 固さ、味のなさがその結果だ。

10時半就寝。
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