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2015年07月25日23:01

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史談【バルカン政治家】

 バルカン政治家とは、明日はA、その次の日はBといったように、巧みに「馬」を鞍替えしながら、生き残っていく政治家のことで、小さな勢力である。

 来年のNHKの大河ドラマは「真田丸」で、真田一族が主人公だそうだ。武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった並み居るビッグネームがひしめく戦国の世にあって、一土豪から発し、戦国の荒波を変幻自在の智略で生き残り、武名を不動のものとした真田一族。

 武名を不動のものとした、と書いたが、戦争という点では織田信長が矢張り上手いと思う。戦争をするには軍資金が必要。戦争と経済を結びつけた点では信長の上手さに右に出る者はいない。しかし、戦闘という点では真田一族が一頭地抜いているといえる。

 真田一族は滋野氏を祖とし、滋野一族はもともと陰陽道、呪術に携わってきた漂泊系の氏族だったという。その系譜によって培われた情報収集力、機動力がゲリラ的な真田戦法に活かされたことは容易に想像がつく。

 幸隆が仕えた武田信玄は出陣の前に筮竹による易を行ない、自ら加持祈祷も行った。天台宗への信仰が篤いだけでなく、実践にも精通したプロでもあった。その主君・信玄の呪術的なものに幸隆は信頼を持ち、それを活かした秘密諜報部門の責任者の地位を得ていく。彼は信玄の陣没後、翌年亡くなるが、後を継いだ昌幸は受け継いだものをよく守った。

父・幸隆が「知将」であるならば、彼は「謀将」でもあった。何しろ戦争の上手さは特筆すべきものがある。

 信玄、謙信亡き後は本州最強ともいうべき徳川軍を総大将が家康ではなかったものの、2度に渡って撃退している。最初は天正10(1582)年の第一次上田合戦では8千の徳川軍を撃退、2回目の第二次上田合戦では慶長5(1600)年、中山道を進む徳川秀忠の3万8千もの大軍を釘づけにした。結局秀忠は上田城攻略を諦め、関ヶ原に着いた時には戦争は終結していた。元々上田を中心とする真田一門は大名というよりも、国人的な立場である。大名が国単位ならば、国人の勢力範囲とはたった郡程度しかない。石高も上田周辺に9万5千石程度。しかも周囲は武田(後、徳川)、上杉、北条という強豪に囲まれている。これは凄いことではないか。更に元々昌幸は真田氏を継ぐ立場ではなかった。武藤家に養子に出され、武田信玄の近習衆だった。ところが、信玄死後、天正3(1575)年、長篠の戦いで兄たちが討死すると、真田の家に戻り、後継ぎになった。信玄の後を継いだ武田勝頼は戦争こそ下手ではなかったが、内政と外交はなっていなかった。それでも天正10(1582)年、新府城(現・山梨県韮崎市)を捨てて、上田で武田勝頼を出迎えようとしたが、勝頼は小山田信茂を頼り、結局裏切られ、天目山の戦いで壮絶な討死を遂げた。

 真田のように小さな勢力では、時には強い者に鞍替えすることも必要だった。

 武田家滅亡の後は、迷うことなく、織田信長の家臣・滝川一益の下につく。が、半年も経たずして本能寺の変が勃発。一益が北条氏直の大軍に敗れると今度は北条に乗り替えた。今度は甲斐・信濃にやってきた徳川家康に乗り替える。家康は「北条領は切り取り次第だぞ」くらいのことは言ったのだろう。昌幸は謀略を尽くして上州にある沼田城(現・群馬県・沼田市)を北条から奪った。

 ところが、羽柴(豊臣)秀吉に対抗したい家康はひるがえして、北条と同盟してしまう。「奪った沼田を北条氏に返せ。」と言ってきたのである。昌幸からすれば、ふざけるなと云いたいところだろう。何しろ沼田城攻略に徳川の援軍は1人も借りていないのだ。すかさず次男信繁(幸村)を越後の上杉景勝の下に人質に送り、上杉に乗り替えた。

 これに怒った家康が8千人の兵を上田に差し向けてきた。第一次上田合戦の始まりである。

 興味深いのは最初の上田合戦の折だ。上田合戦では真田軍2千、上杉の援軍が2千、真田領の民兵3千人でありとあらゆる軍略のテクニックを使って徳川軍を撃退した。上杉景勝の執政・直江兼続は人質の身分だった信繁(幸村)に一時帰国して父を助けろと云った。謀将となるべく育てられた信繁(幸村)が、
晩年勇将と見做されるのは、この時人質生活で上杉謙信以来の「義」の心を知ったからかもしれない。

 戦争には経済力が必要だが、それもない真田氏が勝てたのは、巧みな外交力である。幾ら昌幸でも、流石に徳川、北条、上杉が束になってかかってきたら勝ち目は無い。そうさせないところが彼の上手さだ。共通しているのは、この3者は実は仲が良く無いことだ。この状態を維持するため、彼は腐心したのである。結局彼が苦労して奪った沼田城は北条に奪われるのだが、それを利用して、今度は豊臣秀吉に接近し、北条討伐を焚きつけた。ここに秀吉と北条氏政との戦端が開かれる。

 小田原北条氏滅亡後は、徳川家康が関東に国替えとなるが、昌幸は抜け目なく長男・信幸を徳川の傘下に入れている。関ヶ原の戦いの折、一族は西軍と東軍とに分かれるが、そのおかげで真田家は生き残り、明治時代、華族として家名を遺して居る。まさにバルカン政治家の面目躍如といえよう。

 大勢力とどのようにつながるかが、小さい勢力の運命の分かれ道となる。この点、その観察眼において昌幸は非常に優れていた。

 最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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