mixiユーザー(id:125571)

2015年07月20日07:36

351 view

舅の三周忌




先日妻が天気予報を見ておいて雨が降らないような日を選んで母親に父親の墓参りにいこうかと電話をしていた。 ちょっと早いけど三周忌の墓参りになる。 自分も予定がなかったのでそれに付いていくことにした。 親戚家族が集まってそのようなことをするようなことはない。 個人がそれぞれ故人を悼みそのときそれぞれの気持ちが合えば一緒に行ったりはする。 それは日本仏教的なこととはかなり違う。 妻の家系は両親が昔は敬虔なプロテスタントであったこともあって、宗教に関しては基本的には個人は神とは個々人で繋がっていて家族というような横の繋がりは少ない。 これが個人主義へと繋がるのかどうかは定かでないものの基本的にはそのようだ。 けれど文化的にみるとカトリックにはまだ母親中心のまとまりのようなものがあり、プロテスタントにも多少はそういう傾向もみられないことはないけれど一家係累の数百年の墓というと家系で墓を作ることはないようだ。 あるとすれば歴史の中でだれか個人が名を成しそれを顕彰することに付随してその家族というようなものではなかろうか。 

大阪南部の村の古い墓地にある自分の係累の墓は浄土宗のもので、350年以上ある先祖代々の墓というものの周りに様々な墓が雑多に並んでいた。 日本ではこれが普通だったのだろうが自分が住むオランダのこの辺では先祖代々の墓というのは寡聞にして知らない。 



舅のことについては「介護施設に舅を訪れる」 と題して2012年6月25日に次のように記している。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/62746938.html

そしてその後7月16日に「舅が逝った」と題して次のように記す。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/62792169.html

7月19日に通夜が行われ次のように記した。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/62868898.html

その後、葬儀に続くのだがそれは日記にしていない。 けれどその参加者名簿、そのときの写真や短いヴィデオは記録として残してあるのでそれでその日の概要は知られるけれどそれらはすでに死者を送る儀式としての義務であるからそれが済めばそれぞれには軽い疲れと共に死者の姿は徐々に彼方に去っていくものとしてあり、ここには敢えて記さなかった。 

上のことがあってからもう3年になる。 そのときのことも上に書かれたことを読み直して、ああ、そうだったと思うくらいで日常には亡くなった肉親のことは細かく思い出すこともないけれど3年と言うのは一つの区切りになる。 姑はここに来るのは一年ぶりだと言った。 去年は義妹夫婦が付添って来たのだった。 我々は一昨年に姑と一緒にここに来たのだが2年経って墓地の様子が少し変わっていた。 中心に斎場の建物がありそれを取り巻いて奥の方からこの村の古い順に墓が並ぶ中で舅の墓は当然新参であるから端の方になるのだがそれは旧区画の端であったものがその周りに新区画がいくつも出来ていて殆どが開いたままになっている。 それが埋まるのにはこれから10年か15年かかるのだろうけれどそれでもこの墓地は村はずれの放牧地に続く土地にあって土地の不足にはあと100年ぐらいは問題がなさそうにみえる。  とはいってもここでもベッドタウン化が進みハーグやロッテルダムには車で通うにはあまり問題もなく20年前では眉をひそめるような通勤距離だったものが今では普通に受け入れられているような距離ではある。 

ガーデンセンターで買っていった白い小菊のような鉢を埋めて既にあった蝶の置物を鉢の傍に埋めなおした。 舅が引退してから暇つぶしに廃材のブリキや石材を使って形を作り油絵具を塗って子供たちの数だけ同じものを造り有無を言わさずその一つが我が家の入口に廻ってきてから未だに同じものがそこにある。 それを見るたびに舅が物置で道具を使って何かやっていたことを思い出す。 鉢に水をやり新区画を眺めているとその一番手前で後ろには広い未使用の土地がひろがっているところにアン・マリー伯母さんの墓があった。 亡くなったのが1年半ほど前だからこの区画の第一番目の入居者になる。 おばさんらしいと思った。 葬儀にはほかのことがあって出られなかったからここに埋められているのを知らなかった。もう10以上の墓がその後ろに散らばってある。 伯母は姑と同じ施設に3年ほど前に入ってきて姑のところに繁くかよって色々とおしゃべりをしていた。 伯母は舅の兄である伯父の後妻で先妻はその村には珍しいほどの物静かで穏やかな人だったが20年以上前に乳がんで亡くなった。 その葬儀にでたのがオランダでは初めての経験だったのではないか。 その後伯父は性格がまるで逆のはきはきとして威勢のいいドイツ人の女性を何かにつけて家族の場に連れてきてそのうち正式に籍を入れたと言った。 15年ほど前にその伯父が輸血のときに感染したHIVが原因で亡くなりそのお通夜のときにもう25年も一緒に射撃をしている気の合った同僚の一人がいたのでおどろいてお互いに、なんでお前がここにいるのか、と訊き合ったら、俺の母親の連れ合いだ、俺の伯父だ、ということになって自分たちが親戚になっていることを知ったのだった。 だからといってどうなるものでもないけれど妙な気がする。 だからどこの射撃クラブにいっても隣同士座ってビールを傾け周りに俺たちは親戚だ、と言っても、それがどうした、だから別段どうという反応もない、俺は世界中に子供がいるだろうからお前たちのように従弟だ親戚だといってもそれが何だ、そんなのは俺がしらないだけで俺には沢山いるぞ、という者までいる始末だ。

日本に帰省すると墓参りに行く。 育った村の先祖代々の墓なのだが祖父は7人兄弟の6番目であったから家と土地を貰いインキョであるから自分が筆頭の先祖である。 そこには1970年以来4人の遺骨が納められている。 けれど墓地には親族一同の墓があって習慣としてそれぞれの墓に線香を上げる。 村の庄屋であった母屋の墓で一番古いのが350年ほど前のもので明治時代に建てらてた先祖代々の墓の脇には古くて小さいほとんど文字が判読しきれないものが5つ6つ並んで1区画にある。 その隣に祖父の兄を先祖筆頭とする区画、母の姉が嫁に行った古い家の先祖代々の墓、その係累の一角、こころやすかった近所の人たちの先祖代々の一角、等々と古い村の墓地は歩くだけで村の地理がそのままあるようなものだった。 70年代に寺にいくばくかの金を払い母は自分が先祖の墓には入れないものだからその脇に一角を買って置いておいた。 けれど一人息子が日本に戻らないことを自覚して90年代に自分の弟にそれを譲って自分は寺の堂の納骨堂にはいることを決めていた。 帰省するたびに昔から親たちがやっていた通りにそれぞれの墓には、先祖代々の墓には線香3本、そこから別れた墓には2本づつ配るのだがそれでも15や20の墓をめぐることになる。 これらの墓参りはこうするものだ、と教えられたものでもないし決まったものでもないけれど子供のときから何十年と続いていたものをやっているだけのことだ。 そのこととオランダのプロテスタント系の墓地で経験することの大きな違いはそこにある。 アン・マリー伯母の墓は舅から3mほど離れたすぐ近くにあるけれど彼女の連れ合いだった伯父の墓は反対側の50mほど行ったところだ。 姑の親兄弟の墓は隣村、舅の親の墓は伯父の墓からまだ大分奥の区画にある。 姑は、あれだけシャキシャキして賑やかだったアン・マリーが近くに来て舅は鬱陶しがっているのではないかと笑う。 姑の姉の一人はオーストラリアに移住して寡婦となり老齢でもうオランダには来ることが出来ず向うで果てれば多分遺骨は夫と同じ墓地に埋められることになるだろう。 もし夫と別れていて子供たちともつながりがあまりなく望郷の念が強いのであったのなら生まれ育った酪農農家のある隣村の墓地ということになるのだろうが先祖代々というくくりのないところであるのだから戻ってきてもそれは移住した土地での墓地とはあまり変わりはない。 だからあと10年もしないうちに新しい墓がメルボルン近郊の墓地にできると思う。 姑に日本の墓のことを話すと、こことは大分違うね、という。 自分は焼かれるのが嫌だから夫のとなりに埋められるけれど子供たちはあちこちだし、財産は子供たちに等分で、長男がいたとしても普通は長男が死ぬまで40年ぐらいの間隔なら何十メートルも離れるのは普通だし、家を出てどこかに住んでそこで家族を作りそこに住めばそこの町や村の墓ではないの、と、あそこがどこであそこがどうという風に親戚近所の例を出す。

何時か妻と死んだらどうしたい、というような話をした。 火葬にするのが手っ取り早いけれどそれは嫌だというのでそのまま埋葬という形になるけれどそれではどこだというと多分今住んでいる町にいくつもある墓地の一つだろう。 いろいろな種類があるから急ぐこともない。 それでは自分はどうするのかと聞かれたので焼いて灰にして2つに分けて大阪南部とこの町の空の上から撒いて終わりにしてくれ、墓はいらない、もしお前たちが欲しいというなら勝手に作ればいい、と言った。 今のところそれを変える意思はない。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2015年07月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031