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2015年07月19日23:49

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史談・ゆがめられた名君像【室町最後の将軍】

■卓越した政治力

 室町幕府最後の将軍・足利義昭は人気も無いし、目立たない。これは稀代の英雄・織田信長を敵に回してしまったことが大きいだろう。しかし、彼の行動をつぶさにみれば、政治力はなかなかのものではないかと思っている。

 何しろ殺された兄に代わってその後継ぎになろうとしたのも彼の決断なくしては出来なかったし、それを実現するために、織田信長の助けを借りようとしたことも、評価出来る。美濃と北伊勢などを攻略し、当時120万石に達した織田信長はまだまだ新興勢力である。看板は無い。「オレについてこい。」と言ったところで、家臣はついて来ても、ついて来る大名は(同盟国の徳川家康は別として)まだいない。

 そこに義昭は目をつけた。

 勿論計算高い信長は義昭に接近。いかに新鋭とはいえ、信長の実力と将来性を見抜いたのは義昭である。幾ら信長が義昭に働きかけても、流石に義昭にその気が無かったら、信長は担ぎ出すことは出来ない。

 しかし最初から義昭は信長に目をつけている。このあたり、なかなかのものではないか。

■「鞆幕府」?

 歴史の教科書では1573年、京都から義昭が追放されたことで、室町幕府が滅亡したと書かれている。ところが当時備後の国と呼ばれた広島県福山市で見逃せない史実を述べる人達が出始めている。青年商工会議所の方々だ。彼らは義昭将軍が京都からこの地に落ちのびたから「靹(とも)幕府」が存在した、というのだ。

 確かに義昭は京都を追放された。しかし、将軍を免職された訳ではない。信長にしてみれば、いちいち朝廷に将軍職を剥奪すべきだと主張したりもしていない。

 さしもの藤原氏も、足利義満も天皇職に肉迫したものの、天皇制から皇帝にしようということは考えていない。それゆえ既存の権威である天皇は利用し尽くした。が、信長は既成の権威、地位を何とも思っていないようだ。ひょっとすると彼は日本統一後、ローマ皇帝のような地位に自分が就こうと考えていたのかもしれない。でなければ義昭を処分しているからだ。

 朝廷が免職しなかったのだから、現職である。その現職の将軍のいるところ、これが幕府ということになるから、彼らの云う事は間違っていない。時代をさかのぼると、南北朝の時代、吉野に後醍醐天皇がいたことで、吉野(南)朝ということになったのを思い出して欲しい。

 では鞆というところはどういうところなのか?

 潮流が西と東に分かれるところで、交通の要衝であるだけでなく、難所でもある。今の船舶ならば、潮流に逆らって進むことが出来るが、当時の船はそんなことは出来ない。帆船の時代だ。

 匿った毛利家の入れ知恵もあったのかもしれないが、彼の戦術眼も見事である。ここを襲うとしたら、陸路から攻めるか、潮の流れを見計らって攻略するしかあるまい。地形も鎌倉と似ているだけでなく、海はもっと荒い。

 そのような僻地で将軍はさぞやひもじい思いをしていたのではないかと考えがちだが、そうでもなかった。備中国からの御料所の年貢、日明貿易を通じて足利将軍と関係の深かった薩摩の島津氏、宗氏からも支援を受けていたので、それほど酷くなかったという。

 本能寺の変以後、新しく畿内を治めた豊臣秀吉に接近していく。

 ■室町幕府滅亡は1588年が正しい?

 天正15(1587)年、秀吉は九州征伐に向かう途中、備後に立ち寄り、義昭と会見。太刀の交換があったと云われている。その後、九州の覇者となった島津義久に秀吉との和睦を勧めている。島津氏が降伏した後、翌年、京都に帰還し、将軍職を辞した。正式に将軍職が返上されたのは1588年である。

 秀吉は義昭に山城槇島(今の京都府・宇治市)に1万石の領地を与えている。1万石とはいえ、大坂城では大大名クラスの扱いを受け、厚遇された。元々成りあがりの秀吉は読み書きが苦手、公家の格式はもっと苦手、ということで、御伽衆に採りたてられ秀吉の相談相手にもなっていただけでなく、朝鮮出兵の折、200名を率いて肥前名護屋に参陣している。秀吉たっての頼みだったという。

 亡くなるのは秀吉が亡くなる前年の慶長2(1597)年だった。この時代に天寿を全うするだけでもすごいものだが、信長死後もしぶとく生き残り、秀吉から厚遇されたとは意外にもなかなかの人物だったといえるかもしれない。

 最後までお読み頂き、ありがとうございました。

 

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